ごくごく個人的な「本」日記 ベスト

 



つれづれなるままに綴ってきたこの「本」日記のベストです。

 

2000


 
2000. 12. 08

       
ところで、日本と世界の学問のあり方の大きな違いの一つに、研究会の在り方があります。日本で標準的なものは、発表者が数枚の箇条書きにされた図などの入ったレジメを切り、それにそって即興に近い形で発表をします。その後質疑応答があって終わります。発表はレジメがありますが、即興に限りなく近いものですから柔軟性は在りますが、後で話した事を紙面に残すのは大変な作業と時間がかかり、ほぼ独立したもう一つの別の仕事となります。日本で沢山行われているこの種の研究会は、種まきと言う意味では大変意義がありますが、果実を摘む段になると、急激にその数が減り、日の目を見ないものが大半です。結局の所、発表者は講師でしかなく、お話をしに来るだけなのです。これは講師にとっても気が楽で、適当なレジメさえできれば良いのです。この辺がアマチュアリスムに浸っている日本の限界でもあります。さて、世界はどんな方法を採用しているのでしょうか?ある先生が主催し学生が学生に向って発表するセミナーは別にして、あるシンポジウムや学術講演会などの発表は、あらかじめ準備されたテクストを「読む」かたちで行われ、しばしばレジメは配られません。シンポ参加者は皆各自発表を聞きながらメモを取ります。発表後の質疑応答を踏まえて修正された読み原稿は、すぐに出版OKの段階にあります。そして、その内容に応じて論集に入ったり、別の雑誌に発表されたりして我々が普段欧文の学術雑誌などで見かけるような一個の論文となるのです。
 

2000. 12. 07
       
9時に研究所に行ってボスに会いました。例のフェローシップの件です。「君は周りの助けさえあれば、クリステラーガレンのようになる!」と豪語されてしまいました。お世辞でしょうが、あまりの突然のことに、開いた口がふさがらないと言うのは、まさにこの事を言うのだなと思えるぐらいびっくりして何も言い返せませんでした。ウソじゃないです。
 
 
2000. 12. 03

       
今日は、イタリア・カッシーノでの発表の提出用レジメを送るのとは入れ違いに、クレリキュッチオ氏からプログラムの変更が送られてきました。僕の番は、2か目の朝一番になりました。全体でも、4番目です。国際シンポは、名前が知られていない時は早くやればやるほど、皆に自分がどのような研究をしているかが知られ、いろいろ声を掛けてもらい易くなります。そういう意味では、朝はつらいですが、僕のような新参者にとっては好都合です。僕の直後にクレリキュッチオ氏がフランス語で発表をするみたいです。始めのエントリーでは、イタリア語ですることになっていたのですが、これの方が僕にとっては都合が良くなります。従って、金曜日の朝は、ひらい=クレリキュッチオのコンビでタンデムを組むことになりました。テーマ別の順番では、フラカストロゼンネルトベーコンガッサンディというプログラム展開なります。ますます楽しみです。
 
 
2000. 11. 21

       
「今日は何もないな」と思っていた矢先、何と大ニュースです。先ほど出された全14巻組みで約20万円にもなるロバート・ボイル全集書評の依頼 国際科学史アーカイヴ International Archives of the History of Science)紙から来ました。10頁分を書かなければいけませんが、書けば全集はそっくりそのまま貰えます。とんでもないことです。以前から、「ボイル全集を買いましょう!」とボスに言ってましたが、出版者の方から勝手に送ってくるとは、恐れ入りました。ただ、10頁は大変です。エッセー書評の倍、普通の論文の半分に当る量です。書評のように一気に行くのでなく、むしろ戦略を立てて論文並に書かないといけません。できるかな?もともと、これからボイルにおける種子の理論を調べるつもりでしたから、それをやってしまっても良いかもしれません。
 
 
2000. 11. 17

       
イタリア・カッシーノ用の発表原稿は、どうも納得の行く方向で進んではいません。焦ってきました。そうこうしているうちに、ちょっと気になったアタナシウス・キルヒャーの主著である『地下世界』の「第12の書」を読み始めたら、非常に面白いので夢中になってしまいました。彼のラテン語は読みやすいです。しかし。いかん、こんな事では!どうも僕には、目前に大事な事を控えると無性に他のことが気になり、ついついわき道にそれて、それにのめり込んでしまうという悪い癖があります。BHの内容が異様なスピードで充実する時も、だいたいそんな精神状況にある時です。
 
 
2000. 11. 16

       
イタリアのクレリキュッツィオ氏から連絡があり、1214日午後3時に首尾良く Cassino に着くためには、ブリュッセル空港を朝8時に発たねばなりません。それ以外の手は、13日に発ってローマで一泊する事です。その場合、宿の手配及び宿泊費は向こう持ちです。その日に発って一気に Cassino まで行くつもりでいたのが、ここに来て計算ミスが出てしまいました。観光なら一日多いほうが良いのですが、仕事となると一日少ない方が良いに決まってます。ローマに誰か知り合いが居れば、その人に会いに行けば良いのですが。Cassino 行きの迎えのバスがローマの Ostiense 駅を出るのは、午後1です。それまでどこかをフラフラして居なければなりません。僕は、このどこかをフラフラが一番苦手です。特にローマは物騒です。また、よそでは良く眠れないという弱点もあります。一日早く発つと言うことは、準備期間が一日短くなるという事でもあります。ああ、参ったな。返事をしなければなりません。う〜ん。
 
 
2000. 11. 13

       
もうそろそろカッシーノ国際会議に向けて真面目に取り組まなければならないときが来ました(もう何回もそう言ってますが、そろそろ本当にお尻に火がついてきました)。もうこれ以上、後のばしに出来ません。希望としては、イタリア科学史界の人々にガツーンと一発すごい発表をかましたい所です。これが、本当の意味での専門家学会関係のデビュー戦ですね。これまでのは、小手調べです。大きく出すぎて、少なくとも逆襲ノック・アウトされないようにしなければ!
 
 
2000. 11. 02

        HAB
で知り合ったハイデルベルグ大学 Eckart 教授(医学史)のもとで博士論文を書いている Martin から、Daniel Sennert についての Eckart の幻のD論のコピーが届きました。Wolfgang U.Eckart, ダニエル・ゼンネルトの医学的・科学的理解の基礎:『化学者とアリストテレス主義者の合意と相違についての書』(ヴィッテンベルグ、1629年)を中心に Grundlagen des medizinisch- wissenschaftlichen Erkennes bei Daniel Sennert (1572-1637) untersucht an seiner Schrift: “De chymicorum liber...”, Wittenberg 1629. (Ph. D. Diss.), Univ. de Muenster, 1977 というものです。このゼンネルトという人物は、17世紀初期で最も重要なアリストテレス主義自然哲学者・医学者です。主に17世紀前半における原子論復活のキー・パーソンとして認識されていますが、彼について研究された文献は非常に少ないというのが実情です。しかも、本論文は、特に彼のパラケルスス主義に関する係わりが最も深い著作を中心に分析しています。未公刊ですから、それなりのものですが、侮ってはいけません。世界中でこれを持ってる人は数人しかいないでしょう。超レア・アイテムです。
 
 
2000. 10. 21

       
スイスのチューリッヒでの国際シンポに行って来ました。始めからあまり期待していたものではなかったので、英語での発表の練習に良いだろうぐらいの考えで行ったものだったのですが、哲学者ばかりで歴史家のいない、本当に得るもののないつまらない会議でした。発表自体は緊張しましたが、ゆっくりちゃんと話せたと思います。
 
       
でも、それとは別に、僕にとっては忘れることの出来ない大きな収穫がありました。リェージュからチューリッヒまで列車で8時間という長旅でしたが、ボスと2人きりで、6年目にして始めて、驚くほど色々なことをざっくばらんに話す事が出来ました。大抵は錬金術史研究についてです。これこれこういう研究者は、実際はどんな人でどんな経緯で今に至ったのかとか、僕が最近見つけた情報・本とか人とか。素晴らしかったです。言っておきますが、彼はディーバス氏など足元にも及ばない西欧錬金術の歴史研究の世界トップの人です。しかし、ここ15年ほどずっと国際科学史の学会運営だとかいったマネージングに忙しすぎて実際の研究は出来なかったという人で、(彼の下に2年いた)ニューマン氏を始めとする今の世界で活躍している研究者は大抵、彼の教えを何らかの形で受けています。このスイス道中の収穫は、今後徐々に具現化して行くでしょう。お楽しみに!
 
 
2000. 10. 22

       
留守中に届いた本を整理しておきましょう。2冊です。重鎮 Lucien Braun による Paracelse, 錬金術 De l'alchimie. Press uni. de Strasbourg, 2000 と既に何年も前に邦訳もされている Paolo Rossi, 哲学者と機械 1400-1700 Les philosophes et les machines 1400-1700. PUF, Paris, 1996)です。英訳の中古を探して見つからなかったので仏語での新訳にしました。mechanica という術語の使われ方を知るために改めて読み直そうとしたのですが、邦訳では得てして分からない細かいニュアンスを欧語で掴みたかったからです。彼の著作はいろいろと邦訳されているので、パオロ・ロッシのファンと言う人は日本にも多いかと思います。確かに、オールド・スクールにあっては、なかなか面白い視点を持っていた人です。『フランシス・ベーコン:魔術から科学へ』とか『普遍の鍵』とか。でも、どう考えても、ルネサンスの「オカルト的な闇」から「啓蒙の光」へというポジティヴィスムで溢れています。オールド・スクールです。もっと先へ行かなくちゃ。 
 
       
日本の翻訳の慣習はヘンです。何の事はない地味なソフト・カヴァーの活字の大きい200ページにも満たない気楽な「読み物」が、いつのまにか倍ぐらいの厚さの美しい装丁のハード・カヴァーの高価ないかめしい「書物」に変成します。あの「訳注」と言う存在も不思議です。確かにあまり知られていない百科辞典でも探しにくい人名や地名についてコメントをつけることは一般読者にとって便利になるかもしれませんが、度を越した「訳注」と言うものの存在で、翻訳そのものというより、既に『註解』という範疇に入っているものもあります。逆に、どこでも見つかるような簡単な事項を集めまくって、意味もなく翻訳本をめったらやたらと太らせて「付加価値を付けたように見せかけ」て値段を釣り上げているものも多く見うけられます。「後期バブル様式」とでも言いましょうか?BHの訪問者は、皆イェーツを何冊か持っていると思いますが、毎回ディーやルルスに訳注をつけることが無駄であることに気が付いているはずです。場所も取って仕方ない。初めは自分で集めているルネサンス関係の美しいテーマの宝石のような書物がきれに並んでいる様を見るのは気持ちの良いものですが、洋書の粗雑さに慣れてくると、あの「宝石主義」に疑問を持ったりもします。
 
       
知を欲するお金のない若い人財布をギュウギュウと絞り上げられバカを見る書物の豪華さを競いあう「宝石主義」は、人を知から遠ざけることにしか貢献しません。薄利多売のほうが日本の知のボトムアップには貢献するはずです。古代より書物の本来の価値は、コンテンツにあって装丁にあるわけではないはずです。確かに美しい装丁も文化の一部ですが、それを沢山売ろうとする考えが間違っています。
 
       
また、「脚注」というのは、それだけでその歴史が本のテーマになっているくらい重要なものです。脚注をやめて本の後ろに申し訳程度に注を纏めている大半の日本の書物は、それ自体、日本の知のあり方を象徴しています。そういう場合、殆どの人は、注を読みません。注は本文を読みながら同時に拾って行くのが理想ですが、文末にある場合は、いちいち該当する場所に辿りつくのに時間がかかり煩雑過ぎます。極端な言い方をすると、脚注という美しい注の完成形のコンセプト自体が理解されていないのです。もちろん、洋書にだって文末注を付した本は沢山ありますが、知をあまり重視しない本が殆どです。一番酷いパターンは、邦訳書の文末注を縦書きでつける場合です。こうなると悲劇で、どうしても縦書きの日本語に横書きの欧文が交じり、読むこと自体が不可能となります。こうしたものの良い例が、ディーバス著の『ルネサンスの自然観』 (サイエンス社) の文献解題です。晶文社のイェーツ本もみなそうですね。
 
 
2000. 10. 09

       
僕の主催するこの bibliotheca hermetica (略称 BH) は、現在のところ100名の登録するMLと、このメイン・ウェブサイト、そして年末の第1回目の関西セミナー &東京ミーティング 2000、個別の中核的なメンバーへの  e-アドヴァイス&情報交換、からなっています。以下のことは、東京ミーティングで提案するつもりでしたが、今ここで書いていしまっても良いと思います。この一年のBHの活動を通して、これはと思える初期近代 15-17世紀) のことを研究している人達が僕にコンタクトを取ってきました。人数もある程度揃ってきたところで考えるようになったことなのですが、クロス・ボーダー型 Intellectual History を扱う専門の学術雑誌というか限定出版型の論文集1年後ぐらいに出せたら良いな、と最近思っています。これはまだかなりナイーヴなアイデアで、費用の面など、どのくらい実現可能かは分かりません。敷居の高い超レヴェルの高いモノにするつもりはありません、若い人に機会を与えることを主眼に置くもので、1本が1015ページくらいの短めの論文というか研究ノートの集積型のものと考えておいた方が良いでしょう。論文・研究展望・翻訳・文献紹介などが入っていても良いでしょう。日本の学術雑誌は、会員制が多いのですが、別に会員でなくても投稿できる方が良いような気がします。普段、みな、分野別の縦割り型で、あまりルネサンスやバロックの時代精神というか文化状況を理解していない人しか居ない、オーディエンスの全くない既存の学会誌などに投稿などしているようですが、初期近代の文化の研究は、そういった分野別の縦割りがほとんど意味をなさない時空間です。分野横断型の受け皿が必要なのです。どうせ出すならオーディエンスの居るところに出した方が良いでしょう。そういうオーディエンスを開拓して行くのも狙いです。面白い研究をしているのに、そういう既存の狭いところに出して、なかなか皆に広く知られていないと嘆き思っている人は、まだまだ沢山居るのではないでしょうか?「出版計画
 
 
2000. 10. 08

       
僕の個人的な研究に関する事を集めた『研究室』とは別に、僕と個人的にメールをやり取りしている学生君達の中で選り抜きの内容を集めた『院生室』のコーナーを試験的に作っています。これは、これまでにも一対一形式でいろいろアドヴァイスしてきた学生のe-メール・パートナー達を有機的に結びつける試みで、それらのアドヴァイスの中には、いろいろクロスする内容が多く他の人にも知ってもらいたいと思うことがしばしばあったからです。僕の『e-書簡集』と思ってくれても結構です。リンクは張りませんので、参加したい人は、登録が必要です。条件は簡単で、サークル外の他人に口外しない事とメンバーに恥じを忍んで勉強の為に自分をさらけ出す覚悟が必要なだけです。もちろん、オフレコ部は希望にて削除します。現在、僕とメール上でのやり取りをしている学生は、その頻度の大小はありますが、10名ほどいます。その中には、とても情報度の高い内容の濃い素晴らしいアイデアで満ち溢れた空間を可能にするやり取りが多数あります。この企画は、セミナーとミーティングに続く、BHのプログレッシヴな躍進のキーとなるものです。他のメンバーとの交流を通して相互に切磋琢磨し自分の研究をより一段高いレヴェルに持っていきたいと望んでいるガッツのある人だけに与えられた特権だと考えてもらっても良いです。どうです?参加しませんか?「院生室への扉
 
 
2000. 10. 03

       
ルネサンス建築史専攻の桑木野君に加え、今日あらたに、ルネサンス美術史専攻の小川君という人からコンタクトがありました。ルドルフ2世の宮廷がらみの画家アルチンボルドやハインリッヒ・クンラートおよびジョン・ディーの著作における図像学に関心を持っているそうです。年末の東京ミーティングにも参加してくれるそうで、ルドルフ2世の宮廷周りの医学、博物学、美術とだんだん研究者の輪がプログレッシヴに広がって行くのが手に取るように分かって刺激的です。これは今から、東京ミーティングはすごいことになりそうで、個人的に知的興奮に沸いています。ルドルフ2世宮廷の医師たちの関係を調べようとしている村瀬君にとっても多いにプラスになると思います。成果は、既に僕が保証します。さらなる参加者求む!!勇気を出して僕にメール下さい。皆さんは遠慮しすぎです。
 
 
       
数日前(919日)に、今年の成果に関して少しボヤキを入れましたが、上記の点に関しては大収穫であるなと思っています。これからの目標は大きく分けて2つあります。(1)どのようにしてさらなるコンタクトを増やすか、つまり、初期近代のいろいろな分野の研究者・学生と知り合うか。(2)どのようにしてこれらのコンタクトを有機的に結び付けられるかです。ごくごく最近の例では、これはルネサンス期の歴史研究ならではなのですが、建築史と天文学史の研究者の感動的なコンタクトが実現しました。この出会いからの発展的なアウトプットが出てくるのが大いに楽しみです。やっぱり、(分野別の学会や研究会、ゼミなどの)それぞれの「殻」に閉じこもって孤島のような研究をポツン、ポツンと出しているだけでは、それまでの日本の学術世界の悪循環を繰り返しているだけで、オリジナルな発想を生み出したり、さらなる自己研磨を計るのは難しいですね。
 
 
2000. 09. 19

       
5年越しの大きな仕事をやり終えたということで、今年一年は「充電期間」と言うか、今まで出来なかったことをやろうと決めて、いろいろ好き勝手に読み散らかしたり、Web サイト作りに手を染めたり、外に出て人と会ったり、他の人へのアドヴァイスに精を出したり、16−17世紀の西欧文化史の研究者のネットワークづくりを始めたり、書評を書いたり等などしてきましたが、当然の結果と言うべきか、紙上での欧文のアウトプットがありません。まだまだ一年は終わってませんが、ちょっと複雑な心境です。例の Early Science & Medicine 誌の Christoph Luethy のありがたい提案に従って40ページの博士論文からのエッセンス抽出論文を作るべきなのですが、12月の Clericuzio氏の国際シンポでの発表の準備も始めなければ(まだ始めてない!)いけないなぁ、と考えてもいて、実際上の仕事は進んでいません。性格でしょうが、同時期に複数のことを抱えると、どうも気分が散漫になって集中できません。ある意味で、博士論文はある程度書き進むと後は簡単です。一章一章に集中してこなして行けば良いのですから。去年の冬から春は、すごかったですね、今思うと。天界の精霊が自分の中に降臨したかのように、何かえも言われない力に導かれているかように、素晴らしい発見を次々と見つけながらガンガン突き進んで行った感じです(こう言っても、別に僕はオカルト主義者じゃありません。確かにアウトプットが認められた訳ですから、いい加減な事を言ってる訳でもありません)。だから、そのころに比べると、ちょっと複雑な心境です。でも、ま、それもこれも長い長い準備期間あってのことですから、やはり、こういう好き勝手に読みあさる「充電期間」というのは取るべきだと思っています。
 

2000. 09. 18
       
年末関西セミナー計画」  先週末から道頓堀の友人年末に関西でセミナーを開こうと言うとても刺激的な計画をねっています。まだ帰国用の飛行機の切符を買っていないので、いつという日にちは決められない(どちらにせよ20日以降です)のですが、今のところプログラムについてアイデアを出し合ってます。場所は、神戸の予定です。現在の案では、各自昼飯持参で、10時ごろから始めてお茶と自己紹介の後、まず僕の博士論文に関する発表を聞いてもらってディスカッション、その後は持参の昼ご飯を一緒に食べながら雑談、午後は現在関西のいろいろな大学院で研究を行っている数人(23)の学生の研究計画の発表をしてもらってディスカッション、その後、近くの居酒屋で懇親会と。ま、こんな感じです。僕としては、BH を熱心に訪問してくれているキミアとその関連分野に関心を抱いている皆さまとお会いできるミーティングの機会も設けたいと考えています。セミナーと一緒にするか、別にするかは分かりません。セミナー自体は誰でもオープンに参加してもらって結構だと思いますが、内容が難しいかもしれません。それでも構わないと言う人が多ければ一緒にしてもいいし、もっとざっくばらんな気楽なものの方が良いと言う人が多ければミーティングを別の日にしても良いと思っています。参加したいと言う人がいなければ、残念ながらミーティングの方は無しで、ということになると思います。皆さんの意見をお聞かせ頂けると幸いです。
 
 
2000. 09. 11

       
今ちょうど、研究所の Fabienne から電話で連絡があり、ボスと Newman 氏と中央駅で12:30に待ち合わせすることになりました。おそらく、12:40着の電車に乗ってくるのでしょう。

        いや〜。行って来ました。1時から4時前までかかりましたね、Newman 氏との食事。もちろんボスのおごりです、誤解の無いように言っておきますが、こういうことは、6年目にして初めてです。Newman 氏は、アメリカからロンドンへ仕事で来ていて、空き時間を見つけられたので、10時半にブリュッセルまで飛行機で、それから電車で午後1時にリェージュまで来て、午後7時の飛行機でロンドンに戻ります。そういう、殺人スケジュールの中ですが、午後の炎天下の中いろいろな話を聞けました(90パーセンントの時間はウチのボスのお喋りですが、世界一の人間が強行スケジュールでわざわざアメリカからそれを聞きに来るのですからダテではありませんね)。一応、僕の博士論文のコピーを1部渡して「これが僕の名刺です、時間を見つけて読んでくれることだけお願いします。」ということが出来ました。読めば分ってくれると思います。主な話題は、ファン・ヘルモントの錬金術のことと最近の錬金術史研究をめぐる話題のことです。一流と呼ばれる人は、こういうところで情報交換をしているのだなと、すぐに分かる、スゴイ会話です。聞いているだけでしたが、しびれました
 
 
2000. 09. 07

       
また良いものを読みました。James Hankins の「ガリレオ、フィッチーノ、そしてルネサンスのプラトン主義 (James Hankins, "Galileo, Ficino and Renaissance Platonism." in Jill Kraye & M.W.F.Stone (eds.), Humanism and Early Modern Philosophy. Routledge, London, 2000. pp.209-237 という最新の論文です。この前に読んだ D.Knox のフィッチーノとコペルニクス、ブルーノに関する論文と一脈通じます。Knox の論文は、元素「土」の運動(つまり地球のこと)についてでしたが、ここでも、元素論、特に天界と地上世界が全く別の元素で出来ているのではないというフィッチーノの教えのインパクトガリレオの新天文学に見られることを示しています。ルネサンスの科学的な理論に与えたフィッチーノの影響の大きさが、これからもどんどん確認されて行く気がします。16-17世紀の科学史は全面的な書き直しが必要となるでしょう。むかし、アレクサンドル・コイレが、16世紀の科学思想における「プラトン主義」の重要性を強調していたと思いますが、それ以降の科学史家、コイレ自身も含めてですが、その「プラトン主義」がプラトンあるいは、プロティヌスやプロクロスのような古代の新プラトン主義者そのものの思想を指すのではと勘違いしていた節があります。似たようなアイデアを見つけることは可能でしょうが、「これだ!」というものを見つけられなかったのも事実で、その点を、反コイレ主義者の「実証主義者」と名乗る歴史家達に批判されたわけです。でも、要は、ルネサンス人にとってのプラトン主義が「プラトン」その人よりも、大方の場合、フィッチーノのプラトン註釈を指していたわけですから、歴史家がプラトンや古代の新プラトン主義者のテクストのなかに的確なソースを見つけられなかったのは当然です。フィッチーノの仕事と影響は、あえてルネサンス・プラトン主義と呼ばず、フィッチーノ主義とかフィッチーノ哲学と呼んで良いと思います。僕に言わせれば、コペルニクスの太陽中心説パラケルススの物質理論も多くの部分をフィッチーノ主義に負っているに違いないのです!日本語に訳された古い科学史の教科書から事物を学ぶのは止めましょう!!(今日は叫んでます)。
 
 
2000. 09. 04

       
最近は、数年前まで比較的不毛であった16-17世紀を研究してみたいと考えている日本の若い学生さんや研究者とコンタクトを取ることが多くなってきました。このつながりをもっと有機的なものに出来たら良いのにと思っています。日ごろから思っていることに、有機的なつながりが出来て相互に練磨して向上していくということがなく、単発の離れ小島のような研究がポツン、ポツンと出ては消えて行くのが、これまでの日本の学問の歴史における運命でしたが、web 時代ならもっと建設的な流れが生まれる可能性があるのではと感じています。何か良い方法はないでしょうかね?僕は少し年上の3人の科学史研究者と「プレ・モダーン・サイエンス研究会」というものを組織して、年に1回あって文献情報交換研究発表する形式を取っていますが、あまり機能してないのが実情です。僕が日本に帰る日が限られていることが主な原因ですが、皆さん忙しすぎて研究発表できないことも大きいです。過去2回あって2回とも僕の発表でした。今度の12月に僕が帰った時にまた出来ると期待はしているのですが、また僕の発表になるでしょうね、このままだと。もう一つの問題は人数が少ないことだと思います。知識・情報の交換や議論は、ある程度の情報源の数が無いといけないと僕は思うのです。医学史、発生論史、地学史、キミア史だけでは少ないですよね。僕は、どの discipline でもある程度の議論はできるつもりでいますが、(稲毛海岸の友人以外の)皆さんはどちらかというと単学思考です。また、メールで一対一形式で時折やり取りするか、他の3人がどこかの研究会や学会で偶然に顔を合わせて話をするぐらいしか交流が持てていないのも問題だと思っています。ルネサンス・バロックを研究するには、宇宙論史や博物学史、植物園史、宮廷科学活動史、化学史、宗教史、その他もろもろの横のつながりが無いといけないと僕は思うのです。でも、人数を増やすのは会合形式では難しいという意見もあります。(16世紀を研究しているのにイェーツを読んだことも無い人がいるのも問題です。)もう少し違ったフレーム・ワークで研究交流をしたいと考えています。上にも書いた通り、現在のところ、このBHを始めてからかなりの学生さんとメールでのコンタクトを取るようになりました。基本的には、一対一形式でやり取りをしています。これらのものを有機的につなげる方法はないでしょうかね。
  
 
2000. 09. 03

      
とある論文の審査を頼まれました。審査員名は極秘と言うことが条件なので、本当はこういうことを Web 上に書いてはいけないかもしれません。前審査員が審査不可能ということで僕が推薦されました。大変難しい (救いようもなく厄介な) のだろうか??と心配もしましたが、結構良い論文です。確かに、この対象となっている著者の世界に慣れていないと何のことだか全く分からないチンプンカンプンなことを議論していると見えるかもしれません。時代は、16世紀です。もちろん穴も沢山ありますが、目の付け所は良いですね。僕が博士論文で扱ったことと非常に近いところをついてます。余り書くとばれてしまいますから、これ以上は言えません。あとは、これらの穴をどう直してもらって、OKにこぎつけるかです。良いものは、全力で応援しようという建設的な態度で臨んでいます。
 
 
2000. 08. 29

       
そう言えば、821日の月曜日、HAB の夏季国際セミナーに講義しに来ていたケンブリッジ大学のトリニティ学寮研究フェロー Sachiko Kusukawa さんと、やっとちゃんとした話をする機会を見つけることが出来ました。お名前は、漢字では「楠川幸子」さんと書きます。このサイトでも前から紹介している通り『自然哲学の変容 フィリップ・メランヒトンの場合 (ケンブリッジ大学出版、1995)で、ほぼ日本人研究者としては初めてワールドクラス入りしてしまった僕の尊敬する人です。本人の弁では、銀行マンの娘で、基本的に外国生活(主にイギリスとドイツ) の長かった帰国子女で、国際基督教大学を卒業後、ケンブリッジで修士と博士号をとって現在に至っているそうです。元々の出発点は、思想史で、ライプニッツ関係からスタートし、ケンブリッジで科学史と出会い、博士論文では、メランヒトンを選んだそうです。博士論文は、締切りギリギリで書き上げたもので、間に合わなかったら、全ての荷をまとめて日本に帰るつもりでいたそうです。当の博士論文ですが、始めはプリンストン大学出版から声がかかったそうですが、マーケッティング調査の結果、売れないだろう (シビアな世界ですね)、ということでボツになり、それならと、ケンブリッジ大学出版が受け入れてくれたそうです。その後、いろいろワールドクラスならではの裏話やこの道でやって行く心構えについて彼女の考えを聞かせてもらいました。
 
 
 
08. 21 -08. 22 火」の事。
       
さて、最後の一週間がどうだったかを書くはずでしたが、今となっては余り良く思い出せません。10月のスイスはチューリッヒでの国際シンポでの発表用のレジメを作っていた事や、月曜と火曜が M.Stolberg 氏の16世紀の Wittenberg 大学の医学部の状況についてと産婦人科の成立についての講義があった事を覚えています。あっ、もっと大事な事があったのです。実は、Early Science & Medicine 誌の実質的な編集係 Christoph Luethy 氏が、月曜日から水曜日までセミナーに飛び入り参加してきました。12月の Cassino での『17-18世紀の生命と物質観』という国際シンポで同席するはずだったので、これを良い機会にと、早速自己紹介しました。そしたら、子供がそのころ生まれる予定なのでキャンセルしたばかりだと言われました。お子さんの誕生はおめでたいのですが、会いたいと思っていた人物が欠席となると、これは残念です。このチャンスを逃がしてはいけない、という気になり、講義が終わって皆が外に出た時に話しかけ、名刺代わりに持っていた僕の博士論文の章立てのコピーを一部渡しました。そして、Robert Halleux 氏と Bernard Joly 氏の指導下に作成した事を説明。「見ておきますから、後で、また。」と言われ、そのまま夕食後の恒例の個人研究発表会が過ぎていきました。それが終わったのち、目線があったら早速のごとく僕のところへ Luethy 氏は少し興奮した様子でやってきて。「一体全体、どういうことなんだ!ものすごい大掛かりなものじゃないか!一体何年かけたのだ?」と、かなりその内容に驚いた様子です。僕も興奮しながら一生懸命だいたいのアウトラインを説明しました。もともと Early Science & Medicine の編集係ということよりも、同じ17世紀の粒子論を研究している事から話しをしてみたいと考えていた人物であるので、彼もすぐに事の重大さを理解したようです。「博士論文を上手く要約した論文を EMS 用に書いてみないか?」と言われました。「20ページでは出来ません。」と答えると、「じゃ、40ページでも良いよ。これは本当にエキサイティングなものになるよ。」言ってくれました。兆度、この時邪魔が入り、その晩は、そこまでで話しがまた中断しました。でも、ここまで行けば、もう十分です。後は、40ページのものを作って彼に直接送れば良いのですから。そんなことがあって、サマー・セミナーの方は、もう半分どうでも良くなってしまいました。
  
  
2000. 08. 17

       
最後に驚くなかれ、東大でパラケルススなどを講義している岡部雄三さんにばったり出会いました。早速、名刺を渡すと、僕のことを知っていたのでびっくりしました。どうやら、僕のことを彼の講義にも出ている稲毛海岸の友人から聞いていたみたいです。東大教授ということで大先生型の人相を想像していたので、とても腰の低い丁寧な人懐っこい感じの人で、びっくりしました。15分ほど話す機会があり、土曜日の4時にまた会ってさらに突っ込んだ話しをすることになりました。
  
 
2000. 08. 12
-13
       
そうそう、Maru さんという学生さんから激励のメールを頂きました。卒論用になかなか野心的なプランとして、F.A.イェーツの翻訳をしようとしています。こういう試みは、どんどんバックアップして行こうと思っています。これまでにも、TRKさんや澤元さん、桑野木さんなど、いろいろな方から励ましのメールを頂いています。今後は、BH 的なテーマに関心のある方のネットワークを作っていきたいと思っています。
 
 
2000. 08. 14

       
今日は、ドイツの Bonn 大学の Heinz Schott 教授による16世紀の Basel 大学医学部の状況パラケルスス主義に関する講義が午前中にあり、午後はケンブリッジ大のサチコ・クスカワ博士ルネサンス本草学におけるイラストの意味についての講義がありました。その場では、個人的な話しをしませんでしたが、講義の後、図書館でばったり出会い、5分ほど話が出来ました。それによると、国際キリスト教大 ICU を出られた後、マスター(修士)とドクター(博士)をケンブリッジで取ったそうです。日本を出てから今年で、15だそうです。もともとは、科学史の研究をしていたのでなく、思想史関係でライプニッツなどに手を染めていたそうです。ケンブリッジで科学史に目覚めたそうで、日本の科学史界とは全くつながりが無いそうです。ちなみに、メランヒトンに関する本は、初め Princeton 大学出版から声がかかったそうですが、「市場調査」の結果、「売れないだろう」ということで、話しはご破算になり、ケンブリッジ大学出版が結局引き受けてくれたそうです。西洋精神史関係で、世界で通用する本を書いた最初の日本人ということで、どんな人なのか、お話できるのを楽しみにしていましたが、とても気さくな人という印象を受けました。今週水曜日の遠足に参加するようですので、バスの中ででもお話しましょうと言う事になりました。
 
 
2000. 07. 26

       
昨日、ひょんなことから、リェージュに6ヶ月間研究に来ている松山大学の経済学の教授で北島さんという人と知り合い、その夜、お宅にお呼ばれしました。夜の9時から4時まで、氏の奥さんを交え、飲みに飲みました。というよりは、彼は日本人が人恋しかったのでしょうか?妙に酔っ払って盛りあがってました。彼は大阪出身の京大出。奥さんは京都の女性です。それぞれが正にステレオタイプの難波男児京女のキャラクターを前面に押し出しており、その取り合わせがとても面白かったです。そんなこんなで、今度いつか、四国の松山へ遊びに行く事になりました。一回りの年の差はありますが、彼は妙に僕を気に入ったみたいで話が勝手に盛りあがってました。最後に、奥さんが作られたうどんの残りを頂きましたが、これまさに、JR京都駅の立ち食いうどん店の「京風うどん」のだし汁と同じ味で感激でした。単に関西風という事なのでしょうが、どうしても駅の立ち食いのあれをイメージしてしまうのです。すいません、妙なたとえを出して。僕はなぜか、京都に行くとまず駅で立ち食いうどんの「京風」を食べたくなると言う変なクセがあります。
  
  
2000. 07. 03

       
ついに、僕の博士論文の出版社が決定しました。ベルギーの Brepols 書店です。販路は狭いのですが、良い本作りをしているところです。新人賞をくれた国際科学史アカデミーの業書 Collection of Studies from the International Academy of the History of Science の新シリーズの中の一冊ということになります。Olschki 書店でも Droz 書店でも OK だろうと言われましたが、簡便さを優先してベルギーの Brepols としたわけです。Droz の方が良かったかな?ちょっと後悔も在りますが、ま、何はともあれ一件落着です。これからは、原稿を上記シリーズの規則に従って訂正する作業に入ります。
  
 
2000. 07. 01

      昨日のニュースから、気が動転して、どうも足が地についていません。世界各地から速報メールに対する祝福のお返事がどんどん送られてきています。皆様に感謝!!さらに、土曜日にバイトをしているマーストリヒト日本語補修校の中学数学受講生のオチビさんたちも喜んでくれました。
       
さて、自分なりに調べて、だんだん賞の内容が分かってきました。パリに拠点を置く国際科学史アカデミーは、科学史・科学哲学国際ユニオンの科学史部門とならんで、世界の科学史研究者を束ねるトップ機関として運営されています。偉大な歴史家アレクサンドル・コイレにちなんで、長年にわたって科学史界の発展に貢献のあった人物に対して贈られるアレクサンドル・コイレ賞というのが1968年につくられ、それと平行して、若い歴史家に対して新人賞みたいなものが設立されます。それが、「若き歴史家賞」(Prize for Young Historians)です。1993年までのリストしかないのでその後の事は良く分かりませんが、これまでの受賞者は
    
1968   Serge Demidov
氏(?)、著作 Difussion, Extention, and Limits of the Axiomatic Method in Modern Science に対して
1986   Christoph Meinel
氏(ドイツ)、その化学史研究全般において
1989   William Newman
氏(アメリカ)、偽ゲベルの『完成大全』 Summa Perfectionis 研究に対して
1993   Baudouin Van Den Abeele
氏(ベルギー)、中世ラテン鷹飼書についての著作 Les traites latins de fauconnerie に対して
1995
 Marco Beretta 氏(イタリア)、著作 The Enlightenment of Matter に対して
  
   
と、以上の5名です。みんなスゴイ人達ですねェ。僕への賞は、2001年度なので、1995年の M.ベレッタ氏以降に、1人か2人受賞者が居るように思われます。そうそう、1997年のリェージュでの第20回国際科学史学会で1人受賞者が居ましたから、1999年度があるとして、おそらく8人目になるのかな?でも、日本人では、初めてではないのでしょうか?僕の場合、メキシコ・シティでの次の21回国際科学史学会(20017月)で受賞メダルを貰えるのではないでしょうか??なんかすごい事になってきました。
 
 
 
2000. 06. 30

       
大ニュースです。「ヘルメス通信38」でも速報しましたが、国際科学史アカデミーInternational Academy of the History of Science)というところから僕の博士論文に対して、2001年度「若き歴史家賞」(Prize for Young Historians が受賞されました。エライことになってきました。賞金額は分かりませんが、これで博士論文の出版と就職活動に弾みがつきます。
 

2000. 06. 24
       
パリ第5ルネ・デカルト大学(医学部)の図書館入り口近くにある『科学の前にその姿をあらわにするナチュール(自然)』という彫像があります。去年の5月、17世紀初めに活躍したフランスの最も重要なパラケルスス主義者ケルセタヌスの著作を利用するために一週間ほど通った時に、毎回その前を通るたびに眺めていて、魅了されてしまったのです。そのモチーフもさることながら、今では、余り人目を引かない暗闇の中にひっそりとたたずんで、ゆっくりとそのヴェールを解こうとしている「ナチュール」の姿に魅せられたわけです。これは、前回の4月初めにパリに行ったとき、再訪してわざわざ取った写真です。ちょっと細かいところは分かりずらいかな。ちなみに、作者はわかりません。
 

 
    
  あまり知られていませんが、このパリ第5大学の医学史図書館は仕事のしやすい良い図書館でした。パリの中心のノートルダム寺院のすぐ近くの交通の便の比較的良いサン・ミッシェルという街区(というよりソルボンヌの近くと言った方が良いかな?)にあって16-17世紀のレアな医科学の本がマイクロフィッシュで安々と手に入るのが特に魅力です。140頁分で20FF = 300円と、驚きです。上記リンクで上手く開かない人は、こちらを押してみて下さい。左手に現れる欄の上から2グループ目の「カタログ」の項の上から5番目の Fonds anciens で古い本のカタログに到着します。基本書誌データと探し出したアイテムの分類番号である2組みの数字コードを使って、マイクロフィッシュの遠隔販売を申し込む事ができます。また、上から4番目の「歴史 Histoire のグループの中の上から5番目の Expositions virtuelles では、16世紀から19世紀にかけての医学書から選りすぐりの美しいフロント・ページ100点の展覧が行われています。これは、見物です。サイト言語であるフランス語にめげずチャレンジしてみて下さい。見る価値大のものです。
 
  
  
2000. 05. 23

       
例によってルーヴァンに行く日です。学生さん達は、テスト期間に当るので図書館は込んでますが、コピーを取る人は殆どいないという理想的な状況が続いています。まず、今回最初の目玉は、Isis Current Bibliography 1999 です。僕の場合、これを持って帰って17世紀までの全てのページに隈なく目を通します18世紀以降を研究する人は別として、17世紀の生物学者を研究しているからと言って、17世紀の生物学と医学のページだけコピーするのは間違っています。天文学でも同様です。科学史家にとって、1年はこの ICB に始まり ICB に終わるというくらい重要な項目別分類型の研究文献表です。長年に渡って科学史にたずさわっている人達の中でもこれの存在を知らない人が多く居ることには本当に驚かされます。大学院に科学史の研究室もつ多くの著名な大学でも、先生陣は ICB の使い方を始めにちゃんと学生に指導していない節があります。あきれます。さらに、10年おきに ICB で溜められたデータは、さらに細かく科学者別や事項別に分類された Isis Cummulative Bibliography という他に類を見ない科学史研究の「カノン」 (大典) に集約されます。現在までに、1913-19651966 -19751976-19851986-1995 という4ユニットが出されています。例えば、関西のある港湾都市の大学の科学史研究室では、最近になってやっと第4ユニットを注文したらしいです。その他の有名な大学の科学史研究室でも持ってないどころか存在さえ知らないというところが多いのではないでしょうか??こういうところが日本の科学史界の限界なのでしょう。
  
  
2000. 05. 26

       
僕の膝元リェージュ大学の図書館には、公刊された20世紀前半のドイツの古い博士論文が多数収容されています。今回の収穫は、R.Ramsauer, ダニエル・ゼンネルトの原子論 Die Atomistik des Daniel Sennert. Kiel, 1935)という120頁余りの超レア・アイテムです。かなりしっかりした研究である印象を受けます。ドイツでは、20世紀前半のおける Kurt Lasswitz の原子論の歴史研究(永遠のクラシックですね)の影響は大きかったのでしょう。世界有数の17世紀の原子論研究家でも、この博士論文を実際手にとって見た人は、殆ど居ないのではないでしょうか??本邦でも、現在、エルンスト・カッシラーの『認識の問題』という同様にクラシックなドイツ語の著作が徐々に訳されていますが、今度は、Lasswitz の原子論の歴史を翻訳して出版してもらいたいですね。ドイツ哲学史関係の皆さんがんばって下さい!!
 
 
2000. 05. 12

       
昨日からの流れで、以前に入手していた Allison P. Coudert, Richard H. Popkin et Gordon M. Weiner 編の『ライプニッツ 神秘主義と宗教 (Leibniz, Mysticism and Religion. Kluwer, Dordrecht, 1998 という論集を読みました。特に、Stuart Brown の「ライプニッツのモナドロジーへの幾つかのオカルト的影響 "Some Occult Influences on Leibniz’s Monadology."pp. 1-21)という論文がお目当てでした。ライプニッツの若き日の錬金術への傾倒がどのように後期のモナドロジーに結びつくかを吟味しています。でも、しょせんは哲学史家、実際のところどんな著者や著作に影響を受けたかは明らかにされていません。ゲス・ワーク(推量)的な所が多いです。例えば、Johann Baptista Van Helmont の事を頻繁に引き出しますが、結局は、ファン・ヘルモントに関しては Walter Pagel の著作によるだけで実際のファン・ヘルモントの著作の一行たりとも読んでいないというのが現状のようです。あきれます。アイデアは良いのに。これは、Allison P. Coudert にも言えます。「自然魔術とカバラ」のコーナーで紹介している彼女の『ライプニッツとカバラ』(Leibniz and Kabbalah. Kluwer, Dordrecht, 1995)は、それ自体は良い本なのです。そのアイデアと言い、構成と言い。問題は、「錬金術の影響を受けた」という一般的な表現でこの問題を片付けてしまっているところです。  
  
 
2000. 05. 09 

       
イタリアのアントニオ・クレリキュッチオ氏から今年12月半ばに3日間で予定している『17世紀-18世紀の生命と物質そして発生について』という国際シンポジウムで発表してくれという依頼が来ました。発表時間は、各自45分。大きめの会議となりそうです。もちろん喜んでやらせて頂きます。皆が驚くような良いものを一発ドカンと打ち出したいものです。題はまだ決まってませんが、今年の後半はこれに向けて全力投球ということになりそうです。僕の研究の本質と言うか真価をしっかりと理解してくれているクレリキュッチオ氏には本当に感謝です。
  
 
2000. 04. 17

       
昨日からずっと、今度やっと出ることになった僕のデビュー作である パラケルススの鉱物学における種子の理論とロゴイ・スペルマティコイ」(Revue d'Histoire des Sciences Paris)、?年?号)という論文の最終的な直しをしています。これを書いて学会で発表したのは、もう3年前(19975月)になるので、もう細かい事は忘れかけています。「ロゴイ・スペルマティコイ 」というのは、「種子的理性」とか日本語では訳されますが、古代ストア哲学の中で発展した概念で、事物の個別性の決定をつかさどる因子です。現代社会であえて役目的に言えば、生物の「DNA」みたいなものです。論文は、その概念の16世紀での受け入れをパラケルススの『鉱物の書』を例に分析したものです。言ってみれば、僕の博士論文のイントロダクションみたいなものです。初めての公式な場所での発表だったので、とても緊張した事を覚えています。今考えると可笑しいのですが、発表直前には、毎日声を出して練習しました。
 
 
2000. 04. 11
       
例によって「聖地」ルーヴァンにお参りに行く日です。今回は、稲毛海岸の友人に頼まれた文献のコピーもしなくてはなりませんでしたが、コピー機の調子が非常に悪くて腹が立ちました。哲学科の図書館では、イースターの休みが近いせいでしょうか、学生が殆ど誰も居ませんでした。これ幸いと、コピーすべき文献の入っている本を掻き集め地下のコピー機のところに行くと、一台しかないコピー機には「故障」の張り紙が!!わざわざここまで来る日に限ってこういう仕打ちが待っているとは!これも天命。仕方なく本を借りるだけで、3時にはいそいそと帰る事になりました。今回は、ルネサンス・ドイツのカバラ主義者ロイヒリンの関係の本とライプニッツの関係の本を中心に借りました。全部で10冊。これらを買うとなったらただ事ではないし、日本などでは到底手に入りにくいアイテムばかりですので、その点はいつも感謝しております。今、またライプニッツにこだわり出しています。博士論文で扱ったテーマの延長として彼の思想を見たとき、普通の歴史家とは180度違った角度から彼の思想にアタックできるので、これは大きな強みです。もちろん、ここでも、合言葉は「キミア」です。
 
 
2000. 04. 07
        
列車はほぼ定刻通り11時半にリールに着きました。ジョリー氏との約束は、「午後の始め」(フランスでは午後二時の事です)なので、時間がありますが、氏のもう一人の学生で今は博士課程一年生の Remi 君と昼食を取りつつ話をする事になっていました。世界は狭いもので、レミ君のパートナーは、1992年に僕がリールで一年間フランス語を勉強していた時の学校仲間のキプロス人のアンティーです。丁度、僕の博士論文の審査会の直前にアンティーがいきなり電話をかけて来て、その中の説明で、実は指導教官を共有している事実を知りました。7年ぶりに話をしたので、始めは誰か全く分りませんでしたが、アンティーの話によると、いつだったか、おそらくは1994年のクリスマス休暇の時の事だと思いますが、久しぶりに僕がリールに行ったときに、アンティーのところに寄ろうとしたところ、留守なのでカードを置いて行ったそうです。(自分でも微かにそのことは覚えています)。そのカードにリェージュ大学科学史研究所と入っていたので、当時リール大学の化学部の学生だったレミ君は、世の中にそんな学問もあるのかと目を開かれたそうです。そして、紆余曲折の後辿りついたのが、僕の第2教官のジョリー氏の所という訳です。こうして、僕が科学史の世界に誘い込んだ始めての学生がレミ君という訳です。因果なものです。彼の専門は、18世紀のフランス化学で、特に「塩」の概念の歴史を書こうとしています。僕も昔ちょっと18世紀をかじったので、いろいろ話が出来ます。
 
   
さて、本題のジョリー氏宅では、主に僕の博士論文の出版計画についてに話が終始しました。今、僕は大きく思い悩んでいます。一番早く出版できるのは、ジョリー氏も自著を出しているパリの Vrin 書店です。ここは、哲学や科学史の老舗です。ここから出せれば、フランス語圏の知的読者に広くアピールできます。そこまでは良いのです。しかし、問題は、一般受けするために Vrin 書店の場合、少し小型のフォーマットで400頁ほどが規定となり、僕の博士論文の内容を半分に削減しないといけないだろうということです。補遺が沢山あるような研究ならともかく、僕の場合、切られると話が薄っぺらくなるという危惧を持っています。個人的には、少し遠回りしてでも、販売力が弱くても、ほぼ全てをそのままの形に近い状態で出せる外国の(ここで言うところのオランダの Brill 書店や Kluwer 書店、スイスの Droz 書店など)学術出版専門のところから大判ハードカヴァーで出したいという希望があります。この場合は、世間受けしません。定価も非常に高くなります。最終的には、アメリカの大学図書館や限られた数の専門家しか買わないでしょう。うーん。悩みどころです。日本人の研究者で、外国で自著を出版できるなんてそうザラに居ないのに、贅沢な悩みではあります。うーん。
 
 
2000. 04. 05

       
今日は、昨日王立図書館にて仕入れてきた B.Gemelli の論文 ライプニッツと古典主義原子論 機械論から生物論へ "Leibniz e l'atomismo classico Dal meccanicismo al biologismo." Nouvelles de la Republique des Lettres, (1997), pt. 2, pp. 49-76 を読みました。力作です。特に、その第7部では、機械論的原子論に満足していなかったライプニッツが、顕微鏡観察から得られた知見を下に、生物学的なパースペクティヴを持った「モナド」の理論を完成させる道筋が描かれています。そこでは、かなりライプニッツにおける「種子」の理論に言及されています。この人の研究は確かに素晴らしいのですが、弱点は「種子」の理論の源泉をルクレティウスの伝統の中にしか認めていない点です。つまり、ルネサンス期の「キミア」、特にセヴェリヌスの「種子」の哲学がなした業績をほぼ無視している点です。従って、この Gemelli 氏の中では、ガッサンディは、デモクリトス流の純粋な機械論的な原子論を推進していた人間としてしか見られていません。実は、ガッサンディのライプニッツヘ影響は、ライプニッツの友人であったファン・ヘルモント(息子)の「種子」の理論の影響とも相まって大きいものであるはずなのに... ライプニッツについては、詳しく吟味する時間はありませんでしたが、ガッサンディまでのルネサンス期の種子の理論の歴史は、僕の博士論文にまとめてあります。M.J.Osler 氏同様、この人にも僕のガッサンディを送っても良いのですが、それよりも、いつか近い将来にこの Gemelli 氏と面と向かって意見交換する日が来る事を祈った方が良いなと思っている次第です。早く博士論文の出版を急がねば!!
 
 
2000, 03, 15
       
やはり、「アカデミアのガリレオ的伝統」を強調したのは、19世紀的な Positivist 発展史観に則ってアカデミアの歴史を描いた歪曲された像のようです。初期アカデミアの主な会員のメインの関心は、数学的物理よりも自然誌と医化学にあったようです。16世紀末から17世紀始めのイタリアでの自然誌の盛況振りと合わせて考えるともっともな気がします。彼らの自然誌的な関心と化学的医薬への関心は、密接に結びついていたみたいです。(ただし、この見直しも1630年代までの話です。その後のことは、まだちゃんと研究されていないみたいです。)
 
 

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