ところで
なぜ、僕はリェージュ(ベルギー)に居るのか?
この街と錬金術とはどんな歴史的な縁があるのでしょうか?
そんな疑問にお答えします。
古地図によるリェージュ全景
ラテン名は Leodium、現在は Liege (仏・英)、Luettich (独)、Luik (蘭)と書きます
(僕が住んでいるのは、この絵でいうと手前の橋を岡側に少し戻ったところです)
プラハに居城を構える神聖ローマ帝国皇帝ルドルフ2世(1576-1612)の
従兄にしてケルン大司教および選帝侯かつリェージュ司教領司教君主で
あったハプスブルグ家系ヴィッテルスバッハ家の
バヴァリアのエルネスト(1554-1612)の街
パラケルスス主義者ヨハネス・フーザー(Johannes Huser) による1589年-1590年の記念碑的パラケルスス大全集の編集・公刊は、エルネストの指示と財政援助の下に行われた。R.J.W.エヴァンスの研究以降、ルドルフ2世のヘルメス主義的な錬金術サークルは、現在あまりにも有名だが、ルネサンス後期の16世紀から17世紀前半、時を同時に幾人もの王侯君主がキミストや科学者をお抱え学者として迎え、時には自ら錬金炉に向かい手を汚すことを忌まわなかったという。リェージュとケルンを中心に宮廷を構えたエルネストは、自然学に興味を持ちティコ・ブラーエやケプラーと交流し、最新の科学的な観測実験機器をコレクションとして収集していた。そして、一貫して彼は、パラケルスス主義者達の熱心な擁護者であった。かのジョン・ディーでさえプラハへの旅程で、リェージュ=ケルンのエルネストの宮廷を通過している。特に、医学と錬金工程に関心を持っていたエルネストは、自然鉱水の分析等の推進にも積極的だった。
ルネサンス後期の王侯の知的サークルの歴史的地位と意味について
とても参考になるエルネストの宮廷研究の一節から
「ギリシア-アラブのアリストテリス主義に対応するために中世に諸大学が誕生したなら、16-17世紀の科学革命が生まれ育まれた場所は、知的宮廷サークルである。それは、知識人同士のつどい集まる場所であり、知識人と政治権力の交流の場所であった。王侯のかたわらには、学問芸術の保護者という古代的な理想が、「王侯は人民の神官であり医師である」というフィッチーノ的なコンセプトによって、また同時に、君主は公の繁栄の投資者であり先導者であるという君主の富国的な理想によって更新されて存在した。文化の媒介者としての王侯は、研究機関と国際交流機関の両方を同時に抱えてもいた。自分の仕える君主の意に従がうという条件の下に、知識人は大いなる思考と行動の自由を満喫し得た。メジチ家のコジモ1世、スペインのフェリペ2世、プラハのルドルフ2世、ヘッセン・カッセルのモリッツ、スェーデンのクリスティーヌ等の宮廷は、そういった視点の下に研究されて来ている。16世紀末の世界的な宮廷文化の中心地の一つとして、その肩書きからもすぐ分かるように、バヴァリアのエルネストのリェージュ=ケルンの宮廷は、ある国のローカルな溜まり場的なモノでなく、コスモポリタンな知的交流を可能とする環境を提供するものとして存在していたのである...」
R.アレゥ&A.-C.ベルネス、「バヴァリアのエルネストの知的宮廷」 (R.Halleux
& A-C.Bernes, "La cour savante d'Ernest de Baviere." Archives internationales
d'histoire des sciences, 45 (1995), pp.3-29.)より
現在の新幹線 (TGV) 網にみるリェージュに位置づけ