セネカ研究のプラット・フォーム

 

 

 

古典学のズブの素人でも世界のセネカ研究の歴史に残る論文が書けるのだ

ということを証明するためのコーナーです

 

 

セネカにおける神と自然

 

 

Julia Wildberger, Seneca und die Stoa, Berlin, de Gruyter, 2006, 21-49.

最新研究、これをチェックしたいところ。

 

Francesca Romana Berno, “Review: Bardo Maria Gauly, Senecas Naturales Quaestiones, Munich, Beck, 2003”, Göttingische Gelehrte Unzeigen, 257 (2005), pp. 190-204.

なかなか力作のエッセイ・レヴュ。情報の宝庫です。

 

Bardo Maria Gauly, Senecas Naturales Quaestiones, Munich, Beck, 2003.

 

Brad Inwood, “God and Human Knowledge in Seneca’s Natural Questions”, in D. Frede et André Laks (eds.), Traditions of Theology : Studies in Hellenistic Theology, its Background and Aftermath, Leyde, Brill, 2002, pp. 119-157 = in B. Inwood, Reading Seneca : Stoic Phylosophy at Rome, Oxford, Clarendon, 2005, pp. 157-200.

これは単なる『自然問題集』の要約のようで、あまり意義を感じさせない論文です。

 

Emmanuela Andreoni Fontecedro, “Seneca: l’altro aspetto della divinità”, in P. Parroni (ed.), Seneca e il suo tempo, Roma, 2000, pp. 179-191. * K

 

Seneca e i Cristiani, Milan, 2000 (Aevum Antiquum, 13).

論文「リプシウスにおけるセネカの哲学」あり。

 

A. Setaioli, “Seneca e l'oltretomba”, Paideia, 52 (1997), pp. 321-367 [= Idem, Facundus Seneca, Bologna, 2000, pp. 275-323].

入手。これは、なかなか気合いの入った論文です。こういうスゴイのをみるとですね、Inwood のやっていることは何なんだ?という気がしてならないのです。

 

A. Traina (ed.), L’avvocato di Dio : colloquio sul De providentia di Seneca, Bologna, 1999.

入手。

 

F-R. Chaumartin, “La nature dans les Questions naturelles de Sénèque”, in C. Lévy (ed.), Le concept de nature à Rome, Paris, 1996, pp. 177-190.

入手。

 

Victoria Tietze Larson, “Seneca and the Schools of Philosophy in Early Imperial Rome”, Illinois Classical Studies, 17 (1992), pp. 49-56. *

 

Carmen Codoner, “La physique de Sénèque: ordonnance et structure des Naturales Quaestiones”, ANRW II, 36-3 (1989), pp. 1779-1822.

これは、色気のない論文でした。

 

Giancarlo Mazzoli, “Il problema religioso in Seneca”, Rivista storica italiana, 96 (1984), pp. 953-1000.

入手。

 

Pierluigi Donini, “L’eclettismo impossibile: Seneca e il platonismo medio”, in P. Donini & G. G. Gianotti, Modelli filosofici e letterari: Lucrezio, Orazio, Seneca, Bologna, Pitagora, 1979, pp. 151-274.

やっとのことで入手しました。

 

Giuseppe Scarpat, Il pensiero religio di Seneca e l’ambiente ebraico e cristiano, Brescia, Paideia, 1977.

これは、ストア派としてのセネカしか見ていません。

 

René Hoven, Stoïcisme et stoïciens face au problème de l’au-delà, Genève, Droz, 1971, pp. 99-126.

案外よくまとまっています。見通しが良くなりました。

 

Giuseppe Scarpat, La lettera 65 di Seneca, Brescia, Paideia, 1970.

入手しました。

 

Robert Turcan, Sénèque et les religions orientales, Brussels, Latomus, 1967.

ユダヤ教とキリスト教へのリアクションで、イマイチでした。

 

Giancarlo Mazzoli, “Genesi e valore del motivo escatologico in Seneca: contributo alla questione posidoniana”, Rendiconti dell’Istituto Lombardo, 101 (1967), pp. 203-262.

これは実はセネカのピタゴラス主義を扱っているものだと分りました。要チェックですね。入手。

 

Pierre Boyancé, “L’humanisme de Sénèque”, in Actas del congreso internacional de filosofia en el XIX centenario de su muerte, Madrid, 1965, pp. 231-245.

入手。

 

Pierre Boyancé, “Le stoïcisme à Roma”, Association Guillaume Budé : actes du VIIe congrès, Paris, 1964, pp. 218-255.

入手。

 

K. Abel, “Poseidonios und Senecas Trostschrift an Marcia”, Rheinisches Museum, 107 (1964), pp. 221-260.

おそらく Badstübner 路線で、キケロの『スキピオの夢』とセネカの来世論の起源をポセイドニオスに求めるものらしいです。

 

Gisela Stahl, “Die Naturales Quaestiones Senecas : Ein Beitrag zum Spiritualisierungsprozeß der römischen Stoa”, Hermes, 92 (1964), pp. 425-454.

今ひとつピンときませんでした。読み直します。

 

Ilsetraut Marten, “Ein unbeachtetes Zeugnis von Varros Gotteslehre”, Archiv für Geschichte der Philosophie, 43 (1961), pp. 41-51.

ヴァロとセネカの関係を探ったもの。

 

L. Dagura Mara, “El pensiamento escatologico de L. A. Seneca”, Humanidades, 13 (1961), pp. 53-81 & 141-165. * C

 

Ernst Bernert, “Seneca und das Naturgefühl der Stoiker”, Gymnasium, 68 (1961), pp. 113-124.

イマイチ。

 

E. Bickel, “Senecas Briefe 58 und 65: Das Antiochus-Posidonius-Problem”, Rheinisches Museum, 103 (1960), pp. 1-20.

Theiler 1930年の議論から出発しています。2つの書簡の問題は、もともと Theiler が取り上げたもののようです。アンティオクスについては最後に触れられるだけです。

 

Anna Lydia Motto, “Seneca on Theology”, Classical Journal, 50 (1955), pp. 181-182.

2頁だけで少ない!

 

André-Jean Festugière, La révélation d’Hermès Trismégiste, II : Le Dieu cosmique, Paris, Gabalda, 1949, pp. 235-238, 478.

キュモンの議論を追う形です。

 

Franz Cumont, Lux perpetua, Paris, 1949, pp. 164-170.

下の Badstübner の論文をもとにしています。基本的には、1909年論文の発展型です。

 

Pierre Benoît, “Les idées de Sénèque sur l’au-delà”, Revue des sciences philosophiques et théologiques, 32 (1948), pp. 38-52.

 

S. Blankert, Seneca (Epist 90) over natuur en cultuur en Posidonius als zijn bron, Utrecht, 1940.

入手。

 

A. Modrize, “Zur Ethik und Psychologie des Poseidonios: Poseidonios bei Seneca im 32 Brief”, Philologus, 87 (1932), pp. 300-331.

入手。

 

Willy Theiler, Die Vorbereitung der Neuplatonismus, Berlin, 1930.

この古典的な書が侮れないと分りました。

 

Franz Cumont, “Le mysticisme astral dans l’antiquité”, Bulletin de l’Académie royale de Belgique (Classe des lettres), 1909, pp. 256-286.

              下の Badstübner の論文をもとにしています。

 

Emil Badstübner, Beiträge zur Erklärung und Kritik der philosophieschen Schriften Senecas, Hamburg, Lüteke, 1901.

キケロの『スキピオの夢』とセネカの来世論が、ポセイドニオス起源であると論じています。

 

 

L リェージュ、G = ゲント、K ルーヴァン、*** 見つからない

 

 

 

 

メイキング風景

 

2008. 1. 12

  クニ君が送ってくれた『セネカとストアJulia Wildberger, Seneca und die Stoa, Berlin, de Gruyter, 2006 の内容チェックをパラパラと始めましたが、これは伝統的なセネカの著作名の書き方をせずに、対話編1、対話編2、という具合の1977年のオックスフォード版に合わせた書き方をしてあって使いづらいです。邦訳のセネカの著作集も、このオックスフォード版に従っているようですが、こういう中途半端さはユニヴァーサルと言い難いと思います。> 僕がリプシウス論文から注目している箇所についての議論は280に集中するかと思いますが、ここに関する先行研究を一切無視しているので、議論自体も何も新しい知見を与えるものではありませんでした。2冊組みで1000を超えるマッシヴな著作ですが、分量が多ければ良いというものではないという見本です。まだちゃんと見れていない Gauly の議論の方が建設的な予感がします。

 

 

2008. 1. 9

  カゼにてお休み。『折衷主義の問題後期ギリシア哲学の研究 John M. Dillon & A. A. Long (eds.), The Question of "Eclecticism": Studies in Later Greek Philosophy (Berkeley: University of California Press, 1988) という論集をクニ君から送ってもらったのですけれど、にほだされながら、ちょっとだけパラパラとめくってみました。これはなかなかどうりで、前1世紀から後2世紀という僕の関心にピッタリの時代を扱っているものです。期待大です。

 

 

2008. 1. 8

  待ちに待っていた中期プラトン主義研究の権威 Pierluigi Donini のセネカ論を入手しました。僕の Donini コレクションもだいぶ充実して来ました。今回のは150頁もある長尺の論文なのですが、その第1節を読み終わりました。感動的です。やはり、Willy Theiler の有名な『新プラトン主義の先駆けDie Vorbereitung des Neuplatonismus, Berlin, 1930 に大きく依拠したものでしたが、宇宙神学の側面、つまりキュモン、フェストュジェール、ボワヤンセの研究は全く無視したものなので残念というか、ラッキーです。しかし、Theiler の先駆的な研究が何語にも翻訳されなかったのは残念です。

 

 

2008. 1. 4

  そうだ、そろそろ、「古典学のズブの素人でも世界のセネカ研究の歴史に残る論文が書けるのだということを証明するためのコーナー」を立ち上げたいと思います。そうです、固定観念のバリアーを破るのがBHスタイルなのです。

 

 

2008. 1. 1

  セネカの思想と宇宙神学の関係を探る旅を続けています。プラトン主義の影響が濃いと言われる有名な書簡65についてのモノグラフも書いている Giuseppe Scarpat によるセネカの宗教思想とヘブライ・キリスト教的背景 Il pensiero religio di Seneca e l’ambiente ebraico e cristiano, Brescia, Paideai, 1977 という著作を読みましたが外れでした。彼はセネカをストア派だけの視点から見ることに固まっています。

 

  ポジドニオス神話が崩れる1960年代くらいまで、プラトン主義的色彩をもつストア主義のソースとして、人々は躍起になってポジドニオスの影をいろいろなところに見ていた訳ですが、これはセネカ研究についてもいえることで、ポジドニオスの影響を論じたものがかなりあります。その後、この問題は忘れ去られています。でも、問題を逆手に取ってよくよく考えてみれば、例えポジドニオスの部分は使えなくなったとしても、プラトン主義的な色彩を持つ部分ということに関しては有効なんじゃないでしょうか?元旦のブレイク・スルー講座でした。

 

 

2007. 12. 27

  僕の現時点で持っている感触をいうと、真にセネカの哲学の背景にあるコスモスを理解するためには、僕がロンドンでガレノスの自然哲学の位置づけを考えていた時に、ちょうど出会った Paul Moraux の論文で見事に示されていたアリストテレス主義的と中期プラトン主義的の交錯するような世界におき直してみるべきだろうということです。ただしセネカの場合は、むしろアリストテレス主義というよりは、ストアということになるのだと思います。ストア中期プラトン主義の交錯する世界においてみて、初めて見えてくるのではないでしょうか?> つまり、前回はフェルネルの目を通して見たガレノスに迫り、それが入魂のもう一人のガレノス論文へと結実した訳ですが、今回はリプシウスの目を通して見たセネカに迫りたいと思います。

 

 

2007. 12. 19

考えてみれば、リプシウス論文も含めてセネカ絡みの論文を幾つかソロあるいはデュオで執筆することになるので、それらをまとめて1冊の本にすることも十分に可能だと思います。題して、Senecan Studies 何てどうだと思います?> 何だか次から次へとアイデアが湧いて来てしまって仕方ありません。

 

 

2007. 12. 18

  クニ君と共同で、「アグリコラ、ガッサンディ、キルヒャーの地下世界におけるセネカの『自然問題集』 “Seneca’s Natural Questions in the Subterranean World of Agricola, Gassendi and Kircher” という論文を書くことになりました。これは、彼がリードを取る予定です。本格的な作業は、年明けからでしょう。初期近代の「地下世界の自然学Physica subterranea の伝統に対するにセネカのインパクトについては、僕のメモをご覧ください。僕は、INHIGEO のメンバーでありながら、長らく地学史に触れて来なかったので申し訳なく思っていたのですが、これで久しぶりに少し貢献できると思います。

 

 

2007. 12. 7

  昨日読んだキュモンの本から感じたことは、セネカというのはストアというよりも中期プラトン主義との関係から理解した方が分かりやすい部分があるということです。キュモンは、どちらかというとネガティヴな印象を与える折衷主義という言葉を採用していますが、肝心なところは掴んでいる気がします。この辺が、ラヴェンナで会ったセネカ学者たちとは感触を異にした点です。

 

 

2007. 11. 29

  キュモンフェストュジェールも、ローマの宇宙神学キケロからセネカまで脈々と流れていたと看破していますが、残念ながらフェストュジェールは前1世紀に活躍したフィロで話を止めてしまって、その先を語ってくれません。幸いにもキケロ学者のボイヤンセがウァロキケロを(そしてフィロも!)を扱ってくれたので良いのですが、なぜかセネカだけは置き去りの感があります。また、残念ながら、ゲルシュの著作『中期プラトン主義:ラテン伝統』は宇宙神学についての研究群をほとんどすべて見逃して書かれているものなので、今になって思えば、かなり中途半端なものとなっています。で、世の中のセネカ学者は、どうも頭が固いようで、ストア一辺倒で固まっている感があり、そもそもプラトンの『ティマイオス』の影響のもとに成立した宇宙神学などに見向きもしません。ですから、今でもポッカリと穴が開いている状態です。なかなか良い博論のテーマになると思いますよ、ウァロからセネカに至る宇宙神学をトレースするというのは。きっと、フェストゥジェールの生まれ変わりだと讃えられるでしょう。

 

 

2007. 11. 26

  ストア派の研究は数多いですけれど、クレアンテスに関するものは、実は非常に少ないのです。ストア派のなかでも、ピタゴラスプラトンに近いことを言っていたクレアンテスは、個人的に面白いと思っています。鋭い嗅覚を持っていた Verbeke Solmsen が注目したことからも、どういう感じか分かると思います。

 

   ローマの哲学は、いつもギリシア哲学のオマケとしてしかみられないのですけれど、フィロン12-54)やプルタルコス46-120)によって中期プラトン主義が隆盛になる直前、そしてアリストテレス主義がアレクサンドロス210頃)によって本格的に復活する直前の時期というのは、ギリシア哲学は不思議な空隙となっています。そこで活躍するのが、ローマの哲学者たちの証言なのですが、ウァロキケロの先生となったアンティオクス130-68以降)はプラトン主義者として知られていますが、ストアの影響を強く受けた哲学を展開していたと言われています。面白いのは、テクストの残存していないアンティオクスやウァロの教えを再構成するときは、キケロに頼らざるを得ないことです。まったく同じパッセージが、ある時にはアンティオクスの考えを反映しているものとして、またある時にはウァロのものとして紹介されます。そんなテクストの代表例が、『アカデミカ』や『トスクルム対談』に多く含まれています。

 

 

2007. 11. 10

  夜になって、いろいろ溜まっていた論文や本のコピーを読みました。欧州に来た当時は、日本では手に入らないような昔の古い研究書をじかに手に取ることが出来たので、いろいろ貪るように読んだのですが、最近は久々にその時の感触に近いものを感じていて、古いものばかり読んでいます。で、しみじみ感じるのは、やはり僕は古典学が好きだということなのです。昔は、ギリシア語が読めないということで憧れだけにとどめ、実際に自分で何かすることは諦めていたのですが、最近はローマ哲学に関連するものを扱うようになり、実は自分の攻略範囲にあることが分かって来たのでリアリティを持ちつつ興奮しています。既に次の論文のアイデアも浮かんできました。

 

 

 

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