BHの用語集

 



 

クラシス

ラテン語の専門用語「クラシス」 crasis は、ギリシア語の krasis から来ています。普段は医学用語として temparamentum と訳されるようです。ギリシア語の krasis は、ミックスの意味で、動詞 kerannymi (ミックスする)から来ています。日記のコーナー(2001.9.2910.1)で話題になった crasis という概念について少しまとめておきましょう!

 

2001. 09. 29

   前から、ラテン語のあるテクスト内に出てくる crasi という語の意味が分からなかったんです。ラテン語だと思っていたのですが、手持ちの大型ガフィオ Gaffio には出ていません。おそらく、奪格ですから本来は crasis とかそんな感じかと思います。ちゃんと図書館に行って、大きな辞書で調べれば良かったのでしょうが... 原典テクストは、人文主義の影響がかなりあるので、ギリシア語ならギリシア語で表記されています。だからラテン語のかなり崩れたものか、特殊な用語だと考えていたのですが、ふとやっぱりギリシア語で単に医学用語としてラテン語としてそのまま吸収されていたものかもしれないと思い直し、ギリシア語の辞書を見ると、krasis。あるではないですか!4体液の混合したもののことでミックスするという語から来ています。文意からも当然の帰結です。ガレノスに関する文献を開いてみると確かにインデックスにもあって、complexio temperamentum に振られています。やられたという感じです。ガレノス派批判の文脈の中で出てくるのですから間違いありません。もう、このテクストの著者にとってはギリシア語ではなく、ラテン語の医学用語として認識されていた訳です。特殊な医学概念なら論文とか在りそうですが、そう意識していなかったので調べられていません。しまったな。いい加減な解釈をしていました。観念史家としては失格です。
 

2001. 09. 30

   昨日の crasis の件について、吉本さんから情報を頂きましたのでここに載せさせて頂きます:

 

「9月29日の日記の crasis ですが、新しいボイル全集の全巻の巻末に付録としてつけられたグロッサリーに項目として取られています。(つまり、科学革命の時期には英語になっていたと言うことです。)意味としては、次のように記述されています(たぶん、クレリクチオによる。)医学では、健康な人物における体液の適切な配合。化学では、混合、またはある実体の効能の全体。今は、田舎に帰ってきているので、カードに作成していた17世紀の化学用語集が手元にないのですが、原子論者のある流派は、diacrasis / syncrasis (記憶で書いているので正確かどうかわかりません)を結合と分離の基本的タームとして採用しています。(田舎では調べることができませんが、マグネンか、センネルトゥスか、だったように覚えています。確かチャールトンにあったように思います。もしかしたら、ヘルモントにもあるかも知れません。)」。

 

情報提供ありがとうございました。確かに、Tullio Gregory のゼンネルトについての論文 "Studi sull’atomismo del seicento- II. David van Goorle e Daniel Sennert." Giornale critico della filosofia italiana, 45 (1966), pp. 45-63 p.54 diacrasis / syncrasis の説明があります。その他に昨日自分で見つけた crasis の説明は:

 

ガレノス・スコラ医学の文脈

--- R. H. Siegel, Galen’s System of Physiology and Medicine, Basel, 1968, p.209.

--- P.-G. Ottosson, Scholastic Medicine and Philosophy, Naples, 1984, p.130 n. 8.
 
ヒポクラテスの文脈
--- T. S. Hall, Ideas of Life and Matter : Studies in the History of General Physiology, Chicago, 1969, pp.66, 69, 72-73.
 
ギリシア錬金術の文脈
--- E. O. von Lippmann, Entstehung und Ausbreitung der Alchemie, Berlin, 1919, vol.1, pp.4, 40, 143, 148, 158, 196, 223, 240, 571.
 
原子論者 Jungius 関係
--- H. Kangro, Joachim Jungius' Experimente und Gedanken zur Begruendung der Chemie, Wiesbaden, 1968, p.224.

 

——- W. R. Newman, “Corpuscular Alchemy and the Tradition of Aristotle’s Meteorology, with Special Reference to Daniel Sennert”, International Studies in the Philosophy of Science, 15 (2001), pp. 145-153.

 

となっていますが、どれも、断片的な走り書き程度の説明ばかりです。あまり納得が行っていません。もっとまとまった決定的な論文や著作内の節などが無いかと思っています。どうでしょうね、どなたかご存知でしょうか?もう一年も行ってないルーヴァンの大学中央図書館にある Isis Cummulative Bibliography を引けないので残念です。
  
2001. 10. 01

   例の crasis の件ですが、吉本さんもモノグラフィ的な記述は探しているけれど見たことが無いとのこと。やはり、無いのでしょうか?
 
2001. 10. 02

   ここのところ crasis についていろいろ書いてますが、E.Honma さんよりも情報がありました。ありがとうございます。せっかくですので、以下引用します:

 

最近 crasis ネタが盛り上がっているようなので,私も少し.私はよく crasis crisis を混同していたのですが,crasis は確かに temperamentum と訳される言葉ですね.Galenus crasis 概念については,土屋睦廣「ガレノスのクラーシス論」『科学史研究』第37(1998), pp.223-228 という論文が日本語で読めます.私は crasis temperamentum と同義だと思っていたので(医学の文脈では確かにそう)特に注意を払っていませんでした.また,化学の文脈でも使われていた,というのは吉本さんに教えられました.17世紀後半のオランダの医者・薬学者 Stephanus Blancardus (Blankaart) Lexicon medicum Graeco-Latinum (Jena, 1683;初版は Leiden, 1680) によると,"CRASIS, sive temperamentum est mixtio ex convenienti qualitatum constitutione."ということになっております.

 

 

ということです。と、日本語でガレノスについてはある事が分かりましたが、スコラ医学やルネサンス期の人文主義医学、はたまたその後のキミアや原子論者達のことに関することは、いぜん不透明です。ちなみに、中世・ルネサンス医学のナンシーさんの本には出てきません。ドイツ語圏の方が有りそうかなと勝手に思っていますが。ないのでしたら、これも研究のテーマとして良いと思います、だれか良いテーマを探している人、是非チャレンジしてみてください。明らかにされなければ行けないのは以下の点でしょう:

 

1.いつ頃からラテン語の医学用語として使われているのか?中世からか人文主義からか?
 
2.ルネサンス期の医学の伝統では、どのような人物達が使っていたのか?どのような文脈で使っていたのか?temperamentum complexio ではなく、敢えてこの用語を使う条件は何であるのか?(医学の同一テクスト内で temperamentum と別個に crasis を使っているのであるから、ある種の著者にとってはきっとニュアンスがあるのではと推測します)。16世紀半ばのパドヴァの Montanus やパリの Fernel  にような有力者の著作中に議論展開があるのか?
 
3.初期の17世紀原子論者達に採用されるプロセス。キミアと新哲学の関係で。ゼンネルトが中心的な役割を果たすのか?ベークマンやガッサンディではどうなのか?
 
4.結び。その後、例えば、ボイル周辺及びボイルでは?

 

   どうも、ヒポクラテスの『古い医学について』の中での議論が中心的な役割をになっているように思えます。ということは、中世ラテン訳のヒポクラテスにあるのか、人文主義者によるヒポクラテスの新訳にあるのか?僕には前者のような気がします。つまり、人文主義で持ち上げられたのなら、僕の問題のテクスト内でもギリシア語でかかれるはずであろうからです。ちなみに、Martin Ruland の錬金術辞典(1612年)には crasis のエントリーはありません。この時点ではキミア用語として、それほど意識されていなかったということでしょうか?
 
2001. 10. 03

   例の crasis の件ですが、また追加情報が吉本さんからありました。引き続き引用します:

 

crasis に関する若干の追加情報。BHの情報で、かなり状況がよくわかってきました。ごく些細な追加情報を1点。部分的にしか読んでいなかった次のニューマンの本を読んでいます。William Newman, Gehennical Fire: The Lives of George Starkey,  an American Alchemist in the Scientific Revolution, Cambridge, Mass.: Harvard University Press, 1994 このp.84 につぎの記述がありました。スターキーは、その Natures Explication で、化学について次の定義を与えている:"Chemistry is the Art of preparing Simples, Animal, Vegetal, and Mineral, so as their crasis or virtue being sequestered from its superfluities, and its virulency overcome, its crudities digested, it may be an apt medicine." ( Starkey, Natures Explication, pp.109-110.)

 

 

ということです。確かにこの crasis 騒動の中で、僕もこの本を覗いたら crasis のことが出ていたので、「あ、やっぱりニューマンだな」とは、思ったのですが、肝心の crasis 自体の説明は何も与えていないようですし、それに関する注も付いていません。足早に通り過ぎていってしまっている感じです。
 
   ここで、17世紀前半のキミストにとって非常に重要であったケルセタヌス(デュ・シェーヌ)は、ヒポクラテスが教える crasis についてどう言っているかというと。彼は、ヒポクラテスは『古い医学について』のなかで、事物の力能の原点を crasis には置いていないと主張します。そして、それに関連してアリストテレスとパラケルススの挙げる事物の原理が3段階あり、それが一致しているということを示そうと試み、次のように論を進めます:

 

アリストテレスは、自然の事物の3つのことを見るよう言っている、つまり(1) ウーシア(実体)そのもの;(2) この実体のデュナミス(力)あるいは本質的力(potentia essentialis);(3) crasis に依存する現実態となった力。それに対して、ヘルメス主義者は、次の3つを探すよう常に意識している、つまり(1) ウーシアあるいは形相そのもの;(2) 形成的かつ能動的な原質;(3) 物質的かつ受動的な元素。どちらの場合にしても、事物のウーシアの活動は、(3)の段階の crasis や元素ではなく、(2)の段階の原質やデュナミスを介して発現されるのである。つまりヘルメス(パラケルスス)主義者の3原質(水銀・硫黄・塩)は、(2)の段階にあり、これがウーシアの活動を発現させるのである。そして、特に水銀(メルクリウス)が重要である。なぜなら水銀は、言ってみれば一種ウーシア的であり、他の2原質(硫黄と塩)よりも天空のアイーテルに性質が似ているからである。ガレノス主義者の間違いは、全てを crasis と元素に帰してしまっているところにある。

 

 

と、普段僕が扱っているキミアのテクストってこんな感じの論調で満たされています。初めてみる人は、何が何だか分からないと思います。要は、crasis や受動的な元素よりも3原質から自然の事物の力能が発揮されると言うことを言おうとしている訳です。上記のスターキーと比べると、crasis と言う概念をキミアに持ち込んではいますが、ケルセタヌスの段階(1604年)ではまだネガティヴな扱いになっています。
 

2001. 12. 15

   以前話題になった crasis の件ですが、昨日、この概念についての中世医学史の世界的権威ダニエル・ジャカールの研究ノートを見つけました。Danielle Jacquart クラシスからコンプレクシオ:中世ラテンにおけるテンペラメントゥムに関する術語についてのノート (“De crasis a complexio : note sur le vocabulaire du tempérament en latin médiéval”, in G. Sabbah (ed.), Textes médicaux latins antique, Saint-Etienne, Université de Saint-Etienne, 1984, pp.71-76, reprise in D. Jacquart, La science médicale occidentale entre deux Renaissances (XIIe s. -XVe s.), Aldershot, Variorum, 1997)crasiscomplexiotemperamentum がほぼ同義語として並列されていますが、どういったニュアンスがあるのでしょうか?でも、このノート、本当に短いので、ほんのオマケです。> 気になるので読んでみました。以下がその要約です。

 

アヴィセンナの『カノン(医学典範)』がスタンダードな教科書として導入される以前の西欧における重要な医学書として知られる『パンテグニ Pantegni コンスタンティヌス・アフリカヌス (1087年没) がラテン語訳した時、ガレノスに由来するギリシア語の krasis に関連して commixtio complexio という二つの用語を採用しました。前者は物理的に「混合する」作用のことを意味し、後者はその作用の結果である「釣り合いの取れた混合」を意味するために用いられたようです。しかし、二つの用語は似ていることから、しばしば混同されることがあり、complexio を「自然界における全ての物体の内部における四性質 (熱・冷・湿・乾) の結合」と、より厳密に定義することも行われたようです。同時に、コンスタンティヌスやサレルノ医学派では、人体の四体液の混合についてのケースで temperamentum を使う傾向があったようです。一般的には相互変換可能に見える complexio temperamentum という二つの用語ですが、前者は「四体液の混合」というよりは「四性質の混合」を意味するために実用的テクストで用いられたようです。これらの用語が用いられる以前では temperantia という語が krasis に充てられていたようですが、実用書のレヴェルでは訳語を作らず crasis そのままラテン語化して専門用語として用いていたケースが一番多いようです。crasis が医学用語として定着し始めたときに敢えてコンスタンティヌスは、後世の大勢を占めることになる用語 complexio を導入したことになる訳です。ところで、古典ラテン語や後期ラテン語において complexio という語は、原子論や四元素と関連した文脈で多く用いられたそうです。

 

つまり、crasis ラテン語の医学用語としてかなり早い時期から使われていたことになります。特に訳語としての complexio temperametum ではカヴァーし切れなかったニュアンスを、krasis をそのまま専門用語化した crasis は持っているようです。また、17世紀に原子論的化学の文脈で登場する synkrasis diakrasis という用語の源泉も、そうした所と深く結びついているのかもしれません。


 


 
資料編

 

ヒポクラテスの文脈
--- T. S. Hall, Ideas of Life and Matter : Studies in the History of General Physiology, Chicago, 1969, pp.66, 69, 72-73.

 

ガレノスの文脈
---
土屋睦廣「ガレノスのクラーシス論」『科学史研究』、第37巻、1998年、223-228頁。
--- R. H. Siegel, Galen’s System of Physiology and Medicine, Basel, 1968, p.209.

--- Erich Schöner, Das Viererschema in der antiken Humoralpathologie (Sudhoffs Archiv, Beiheft, 4), Wiesbaden, Franz Steiner, 1964. 

--- R. Klibansky et al., Saturn and Melancholy: Studies in the History of Natural Philosophy, Religion and Art, London, Warburg, 1964. Part 1. 土星とメランコリー (晶文社、1991年)


 

スコラ医学の文脈

--- P.-G. Ottosson, Scholastic Medicine and Philosophy, Naples, 1984, p.130 n. 8.

--- Danielle Jacquart, “De crasis a complexio : note sur le vocabulaire du tempérament en latin médiéval”, in G. Sabbah (ed.), Textes médicaux latins antique, Saint-Etienne, Université de Saint-Etienne, 1984, pp.71-76, reprise in D. Jacquart, La science médicale occidentale entre deux Renaissances (XIIe s. -XVe s.), Aldershot, Variorum, 1997.
 
 
ギリシア錬金術の文脈
--- E.O.von Lippmann, Entstehung und Ausbreitung der Alchemie, Berlin, 1919, vol.1, pp.4, 40, 143, 148, 158, 196, 223, 240, 571.
 
スコラ的原子論者 Sennert 関係
--- Tullio Gregory, “Studi sull’atomismo del seicento- II. David van Goorle e Daniel Sennert”, Giornale critico della filosofia italiana, 45 (1966), pp.45-63
p.54.
 
原子論者 Jungius 関係
--- H.Kangro, Joachim JungiusExperimente und Gedanken zur Begruendung der Chemie, Wiesbaden, 1968, p.224.
 
キミスト Starkey 関係 
William Newman, Gehennical Fire: The Lives of George Starkey,  an American Alchemist in the Scientific Revolution, Cambridge, Mass.: Harvard University Press, 1994
p.84.

 

 

 
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