国際シンポジウム
 
17-18世紀の物質と生命』
 

 

   
参加報告記

 

 

国際会議『物質と生命 Materia e vita (1600-1800)』に参加して

 

平井 浩[1]

 

『生物学史研究』67 (2000) 95-99頁掲載

 

 

 去る20001214日から16日までイタリア中部、ローマとナポリのちょうど中間に位置する小都市カッシーノで行われた近代における生命と物質観に関する国際会議に参加・発表してきたので、その背景や会議の様子について報告したいと思う。

 今回の国際会議の主催者 Antonio Clericuzio 氏は、1990年頃より17世紀英国における粒子論の伝統、ロバート・ボイルの化学やファン・ヘルモント主義者の医化学について数々の論文を発表している初期近代化学史研究の新進旗手である[2]。その研究は、医学や生物学の化学との関わり合いを重視するもので、今回の会議の「物質と生命」というテーマは、彼のかねてよりの重大関心事、物質の活動性と生命の起源の問題、と密接に関係しているものである。私も、初期近代の物質の科学における「種子」の理論を研究する上で、物質と生命の問題に多大なる関心を持って早くから彼の研究に馴染み、自分の博士論文の審査委員にも入ってもらった[3]。そういう経緯から今回の発表依頼があった時、「17-18世紀における物質と生命の問題」というテーマを聞かされ、彼の意図しているものが容易に理解できた。

 もともと、イタリアは Luigi Belloni Carlo Castellani の伝統を受け継ぎ、Walter Bernardi 等を輩出した17世紀生物学史研究の地盤のしっかりしている土地である[4]。近年では、マルチェロ・マルピーギ、ラザロ・スパランツァーニ、フランチェスコ・レディ等々の生物学史上において重要な役割を果たした人物をそれぞれ人物別に多角的に分析するレヴェルの高い論文集が立続けに出されていることから、研究者層の厚さとその生産性の高さを窺い知ることができるであろう[5]

 『生物学史研究』前号で紹介された会議計画の第一報にみる参加予定者の顔ぶれと発表題目から、今回の会議がまさにイタリア生物学史研究陣の最先端と Clericuzio 氏を先頭とする生命の問題を重視する化学史研究者達の刺激的な出会いの場になるであろうことが確信できた。ただし、それ以降にも参加陣の顔ぶれは二転三転し、個人的に出会えることを期待していたイタリアの Walter Bernardi、カナダの François Duchesneau[6]、スイスの Christoph Lüthy[7] の三氏は最終的に参加できず、他の人に入れ替えられていたことを付け加えておこう。

 全13名の講演者中、外国からの参加者は私を含めて六名、その内の四名が会議初日の午後一時にローマ市内の Ostiense 駅に集合し、迎えのマイクロ・バスに一時間半揺られ、カッシーノの指定ホテルに到着した。すぐに荷物を各自部屋に置いて、ロビーに集合し、午後三時半の会議開始を待つ会場へと向うことになった。徒歩数分で行ける会場は、大学内ではなく、近郊の新築されたばかりの公営総合病院内の講演会室だった。この場所の選択といい、午後三時半というかなり遅い開始時刻といい、他ではあまりない変則的なものではないだろうか?

 最初に、Clericuzio 氏による開会の挨拶があり、その後に第一日目として三人の発表者が予定されていた。第一番目の発表者は、去年初頭に日本を訪れ数回の講演を行った Marco Beretta 氏で、元々はラヴォワジェや18世紀化学の専門家だが[8]、最近は新しい研究分野を模索中ということのようで、『原子と伝染』(Atomi e contagio) という題で、16世紀前半のジロラモ・フラカストロの原子論と伝染理論についての発表をした。イタリア人研究者の間では、国際的な華々しい活躍を繰り広げている「マルコは別格」という扱いらしい。彼の発表自体は、それほど新しい知見も無く、15世紀のルクレティウス再発見に伴なうポリティアーノの関心と絡めてのルクレティウス路線でフラカストロを分析していくものだった。フラカストロの著作については彼の代表的な医学書二冊の分析だけに留まり、肝心の seminaria 理論の出所に関しては、余りはっきりしたことが説明されず、その説明も私の見解とは違っていた。彼は、その当日に私の博士論文のコピーを Clericuzio 氏から調達したばかりでまだ目が通せていないという段階であったらしい。

 次は、ミュンヘンの Michael Stolberg 氏による『生命の原子:ダニエル・ゼンネルトの生気論的マテリアリスム』(Atoms of Life : The Vitalistic Materialism of Daniel Sennert) という発表で、17世紀初頭ドイツのスコラ主義的原子論者ゼンネルトにおける「形相の宿った原子」の理論と生命の起源の関係についての分析であった。彼自身は、20年前にゼンネルトについて論文を書いているが[9]、その後はこれと言った目立った研究は出しておらず、また現在のところゼンネルト自体十分に研究されてきていないという背景上、かなり期待度は高いものだった。しかし、発表はどちらかというとあまり突っ込んだ分析は無く、ゼンネルトのアイデアの紹介に留まっていた。

 三番目は、スイスの Benedino Gemelli[10] 氏による『フランシス・ベーコンの著作における生命の形成と保存について』(Formazione e conservazione della vita negli scritti di Fancis Bacon) という発表だ。近年新たに出版されたベーコンの著作から生命についての思想を分析するもので、かなり丁寧な作りの発表だった。個人的に前から注目していた人物だけあって、発表以外の時間も彼といろいろ話す機会があり、今回一番の収穫かも知れない。ここで、第一日目は終了し、ホテルに戻り一同でこの地方の料理を堪能した。

 二日目の始めの発表は、ローマの Giorgio Stabile 氏の『デカルト生理学における篩 (ふるい) のモデル』(Il modello del setaccio nella fisiologia cartesiana) というもので、デカルト生理学においていかにして人体内の流体が分離され松果体や睾丸に微細物質と呼ばれる活動性の高い物質として集められるのかという説明だった。会議のルールでは、各人の発表持ち時間は45分+質疑応答時間少々のはずだったが、驚いたことに、質疑応答は延々と一時間近く続き、その後の日程に大幅な狂いが生じるという事態が発生した。この人は質問したことに答えず自分の話したい事に夢中になり、果ては自分の携帯電話が鳴っているのも気がつかない!という少し面食らう発表だった。

 その次が私の発表『ピエール・ガッサンディの種子の理論:17世紀の物質の科学と生命の科学との間で』(Le concept de semence de Pierre Gassendi entre les sciences de la matière et les sciences de la vie au XVIIe siècle) だった。思わぬ開始時間の大幅な遅れから会議の成り行きを心配したし、休憩無しでの継続に聴衆も大変だと思ったが、発表は注意深く聞いてもらえた。プラトン主義に起源を置くルネサンス期独特の「種子」(semina) の理論が、ガッサンディに及んで分子 (molecula) の概念と絡み合い、生命の科学にも深く関与して行くさまを上手く描写できたと思う。観衆へのインパクトは強かったようで、一応これで会議に呼んでくれた Clericuzio 氏の期待にも応えられ、今回の任務を半分は果たすことができたと思い、胸をなでおろした。

 その後、Clericuzio 氏自らの発表『生物の化学的理論:17世紀の発酵の概念』 (Les théories chimiques du vivant : la notion de fermentation au XVIIe siècle) がなされたが、アナウンス通りに仏語で通すのではなく、途中から伊語での発表となる変則的なものだった。時間が無くて訳し切れなかったようである。しかし、内容はそれまでの彼の研究からの期待を裏切らない素晴らしいものだった。中世錬金術で用いられていた発酵という概念がファン・ヘルモントを通して生物学的色合いを帯びた理論になり、英国医学者の Thomas Willis 等の仕事によって17世紀後半の生理学で隆盛を極めていったという要旨であった。

 次のローマの Maria Conforti 氏は、さらに発酵について取り上げ、17世紀イタリアでの議論を分析する『発酵運動:グリェルミニとクリトファロの交信における生命の起源』 (Il moto fermentativo : prima origine della vita in una corrispondenza fra D. Guglielmini e G. de Cristofaro) という発表を行った。やはり、ここでも Thomas Willis の発酵理論が大きく影響しているようだ。これで大きく予定時間を超過して午前の部が終わり、皆で昼食、午後4時から午後の部を予定通り始めるということになった。

 一人目のナポリの Alessandro Ottaviani 氏は、上述の F.レディ論集にも論考を寄せている若手である[11]。彼の発表『17-18世紀における下等植物の発生』 (La generazione delle piante imperfette tra ‘600 e ‘700) は、主にキノコの発生理論の変遷を軸に下等植物における生命の発生のアイデアをトレースしていくというものだった。

 次の Maria Teresa Monti 氏の発表は、『スパランツァーニのミミズと存在の階梯』(I lombrichi di Spallanzani e la scala degli esseri) というもので、ミラノのスパランツァーニ研究プロジェクトの中心人物だけあって、未公刊のスパランツァーニ自身の研究ノートに大幅に依拠しつつ、丁寧に丁寧に議論を積み重ねて行く素晴らしい実証研究だった。

 二日目最後は、ジュネーヴの才気溢れる若手 Marc J. Ratcliff 氏による『可視性、匿名性、自然発生性:ニーダムからスパランツァーニまでの自然発生の論争』(Visibilité, anonymat, et spontanéisme : les querelles sur la génération spontanée de Needham 1749 à Spallanzani 1765) という題で、18世紀中ごろニーダムの投げかけた自然発生論争がその後15年間どのような形で進展して行くかを追った研究だった。Monti 氏と仲良しだけあって、きめの細かい論証で複雑な歴史の流れが浮き彫りにされていくというものだった。カゼで喉を痛めていたせいで、途中で声が出なくなってしまい、数分間発表を中断するというハプニングもあった。

 二日目の夕食前には、カッシーノにある西欧最古のモンテ・カッシーノ修道院(現在のものは、戦争で破壊されたものを修復し直したものだそうである)を参加者一同で見学するというエクスカーションもあった。

 最終日の土曜日は、三つの発表が予定されていた。始めは、フランスはナントの Gerhard Stenger 氏の発表だった。オーストリア出身の彼は、現在『18世紀』(Dix-huitième siècle) という雑誌の運営にも深く関与している哲学史家であるが、テーマは生物学史に非常に近く、『機械論的マテリアリスムと非機械論的マテリアリスム:ディドロとヴォルテールの場合 (可感物質について) (Matérialisme mécaniste et matérialisme non-mécaniste : le cas de Diderot et de Voltaire (à propos de la matière sensible) という発表を行った。ディドロの『ダランベールの夢』という作品を軸に可感物質についてディドロの思想を分析していくなかなか優れたものだった。

 次は、オランダの Heiko H. Kubbinga 氏の発表『生きた物質・死んだ物質:ベークマンからビュフォンまでの分子の理論』(Matière morte, matière vivante : la théorie moléculaire de Beeckman 1620 à Buffon 1749) であったが、Clericuzio 氏や私を含め少なからずこの人の発表に期待をしていた。しかし、フタを開けてみると、その期待を全く裏切るひどいもので、会場の苛立ちが手に取るように伝わってきた。今回の会議は、各人の扱うテーマが古いものから順に新しい時代へと降りてくるという統一感あるものだったが、会議の最終日前日の深夜に駆け足で到着した氏の発表は、それまで参加者全員で作り上げてきた素晴らしい成果を台無しにしてしまうのでは?と感じられるような、素人目にも的外れでズサンなもので、化学史家として以前から彼の仕事を注意深く追ってきた者にとっては非常にがっかりさせられるものだった。

 そんな失望感が蔓延する会場を、非常に緊張感と迫力のある発表で会議全体の成果を上手くまとめ上げてくれたのが、現在のラマルク研究の第一人者であるパリ在住のイタリア人 Pietro Corsi 氏だった。彼の発表『1800年付近の生命の起源と自然発生説』 (Origine della vita e generazione spontanea intorno al 1800) は、ラマルクの自然発生説と地球に生命が宿っているという彼の観念のつながりを分析するものだった。この人の発表は、全く原稿を見ることなく、全てが頭の中に整然と入っているという凄いもので、しどろもどろしたり、何かを思い出そうとするそぶりも全くないスピード感溢れる濃密なものだった。その強烈な人格と共に今回非常に印象に残った研究者の一人である。

 最後に会議全体に関する包括的なディスカッションがあった後、主催者 Clericuzio 氏から今回の会議での発表は、イタリアの科学史雑誌 Nuncius の叢書である Biblioteca di Nuncius に入り、Materia e vita (1600-1800) という書名でフィレンツェの Olschki 書店から出版されるであろうことが発表された。

 これまで参加してきたいろいろな国際会議の様子から判断させてもらうと、今回の会議は全体的なレヴェルの高い統一感のあるものだったと思う。会議の途中、そこここで携帯電話が鳴り出したり、平気で電話に出て話す人がいたり、日程が予定通りには進んで行かなかったりと、中・南部イタリアならではの他にはないであろう雰囲気の中で、17世紀から18世紀にかけての生物学史研究におけるイタリア勢の研究者層の厚みと実力を見せつけられる会議であった。

 



[1] ベルギー・リェージュ大学 科学史研究所 客員研究員 (E-mail : jzt07164@nifty.ne.jp)

[2] 代表作 : “From van Helmont to Boyle : A Study of the Transmission of Helmontian Chemical and Medical Theories in Seventeenth-Century England”, British Journal for the History of Science, 26 (1993), pp. 303-334; “The Internal Laboratory : The Chemical Reinterpretation of Medical Spirits in England (1650-1680)”, in P. Rattansi et A. Clericuzio (eds. ), Alchemy and Chemistry in the 16th and 17th centuries, Dordrecht, 1994, pp. 51-83.

[3] H. Hirai, Le concept de semence dans les théories de la matière à la Renaissance : de Marsile Ficin à Pierre Gassendi, Ph. D. diss., Univ. of Lille 3, 1999.

[4] 代表作 : Le metafisiche dell’embrione : Scienze della vita e filosofia da Malpighi a Spallanzanni (1672-1793), Firenze, Olschki, 1986.

[5] D. Bertoloni Meli (ed.), Marcello Malpighi : Anatonist and Physician, Firenze, Olschki, 1997; W. Bernardi & P. Manzini (eds.), Il cerchio della vita : materiali di ricerca del centro studi Lazzaro Spallanzani, Firenze, Olschki, 1999; W. Bernardi & L. Guerrini (eds.), Francesco Redi, un protagonista della scienza moderna, Firenze, Olschki, 1999.

[6] 代表作 : Les modèles du vivant de Descartes à Leibniz, Paris, Vrin, 1998.

[7] 代表作 : Matter and Microscopes in the 17th Century, Ph. D. diss., Univ. of Harvard, 1996.

[8] 代表作 : The Enlightenment of Matter : The Definition of Chemistry from Agricola to Lavoisier, Canton (MA), Science History Publications, 1993.

[9] “Das Staunen vor der Schöpfung : “Tota substantia”, “calidum innatum”, “generatio spontanea” und atomistische Formenlehre bei Daniel Sennert”, Gesnerus, 50 (1993), pp. 48-65.

[10] 代表作 : Aspetti dell’atomismo classico nella filosofia di Francis Bacon e nel seicento, Firenze, Olschki, 1996.

[11] “Redi e la tradizione, naturalistica : dai Lincei a Paolo Boccone”, in Francesco Redi, 1997, pp.141-158.