書評

 

 

A.G. Debus 近代錬金術の歴史 (平凡社、1999年)への

 

 

化学史研究 27巻第2 2000年)、80-82頁所収

 

アレン・G. ディーバス (川崎勝・大谷卓史訳) 『近代錬金術の歴史』平凡社, 199910, 653, ISBN 4-582-53721-9, 9000円.

 

「ポスト・ディーバス時代にディーバスを読む」

   本書は、Allen G. Debus, The Chemical Philosophy : Paracelsian Science and Medicine in the Sixteenth and Seventeenth Centuries. 2 vols. (New York, 1977) の全訳である。『化学史研究』における原著の紹介は、1984年に井山弘幸氏により既に行われている()。 
  
   著者のディーバスは、16世紀後半から1640年代までの英国におけるパラケルスス主義の状況を研究した画期的な博士論文 (『英国のパラケルスス主義者たち』として1965年に出版) )を1961年に完成させた後、16世紀から17世紀前半を中心とする西欧ルネサンス期の化学的著作における数学、運動、火による分析、湿式分析、「硝空気」、土壌改良、教育改革、地質学等をテーマにした重要な論文を次々と発表していった()。その旺盛な研究活動のクライマックスとして、それまでの研究をさらに発展させたものが、本書『ケミカル・フィロソフィー』へと結実させられている。ついで、フランス語圏でのパラケルスス主義の動向と『ケミカル・フィロソフィー』で追いきれなかった17世紀後半から18世紀への展望をまとめた『フランスのパラケルスス主義者たち』(1991) が発表される()。その研究活動の最盛期を通過した後は、スペイン・ポルトガルにおけるパラケルスス主義の動向に主な関心を移しつつ、幾つかの論文を発表し、最近、長く勤めたシカゴ大学の科学史教授職を退官している。 
   
   それまで、発展史観 (Positivism) に支配された歴史家によって推し進められていた、ややもすると物理・天文学一辺倒だった「機械論」礼賛の科学史研究に、真面目な研究に値しない「偽科学」 (Pseudo-science) というレッテルを貼られていた錬金術やその関連分野の中で、特にルネサンス期のパラケルススとその追従者の運動を、「ケミカル・フィロソフィー」と「パラケルスス主義」という巧みなキー・ワードによって、殆ど開拓されていない未知の研究フィールドに転換し、そこでの研究伝統までをも築くあげてしまったのが、ディーバスとその主著である本書『ケミカル・フィロソフィー』なのである。そのテーマ自体が優れてオリジナルである本研究では、どのような人物、著作、問題、潮流、分派が存在し、それらのうちいかなるものが重要であったのかを、著者は注意深く探求し明解に分析している。彼の一貫したテーマは、科学革命期における、他のいかなる科学分野より広範で深い影響を与えてきた「キミア」 (錬金術と化学をあえて区別しない) という一個の「知」の伝統を、ケミカル・フィロソフィーという鍵を用いて、文化的な歴史コンテクストに沿ってより正確に把握・記述することにある。ところで、ケミカル・フィロソフィーとは、単なる実験室での錬金作業や長寿薬の探求に大半を費やした中世ラテン錬金術やいわゆる「イアトロ・ケミストリー」(医化学) とは、その根幹は共有しようとも、それらとは明確に一線を画する、「化学」と言う鍵でもって、物質のみならず、自然、人間、世界とその創造の秘密を理解しようとした特別な理念をそなえた知的運動であり、その多くをルネサンス期の医師パラケルススの思想に負うというものである()。 
  
   全部で8章からなる本書は、第1章でルネサンス期における自然観と化学の関係を探るために錬金術の概略史が記述され、パラケルススの業績が概観される。第2章で「ケミカル・フィロソフィー」の特徴的なテーマが説明される。第3章では、ペトルス・セヴェリヌスやギュンター・アンデルナッハ等のパラケルススの思想の整理や既存の医学思想との折衷を試みた重要人物の発掘がなされ、17世紀初頭に起きたパリでの決定的な化学論争とイギリスでの妥協的態度が描かれる。第4章では、ディーバスのお気に入りであるロバート・フラッドに、第5章では、パラケルススの次にケミカル・フィロソフィーの歴史において重要であったファン・ヘルモントに、それぞれ長大なスペースが割かれ、それが本書の核となっている。第6章と第7章では、変容期のケミカル・フィロソフィーと銘打って、科学者、思想家や錬金術師とレッテル貼りが歴史家によってされてきた様々な人物のケミカル・フィロソフィーの伝統との関わり合いが、第5章までの綿密な分析の上に、鮮やかに描き出されて行く。ウェブスター、グラウバー、ルフェーブル、レムリ、ベッヒャー、ボイル、ニュートン等が扱われ、手に汗を握るようなドラマティックな展開をみせる。最後に、第8章の短い後記で締めくくられる。 
  
   本書は、その発表からすぐに学術界に好意的に迎え入れられ、16-17世紀の化学や医学の研究者はもとより、宇宙論、地質学、教育改革、宗教改革、農学等々の広い領域の歴史研究にとって多大なインパクトを与える必携の書となった。あまりの重要さに、本書を利用しているかいないかが、その後の80-90年代における各研究のレヴェルを判定する一つの指標にまでなっている。本書における多様な問題提起を出発点として、その影響下に、W.Newman によるスターキー研究、P.H.Smith によるベッヒャー研究、R.G.Frank Jr.によるオックスフォード化学生理学サークルの研究、B.T.Moran によるヘッセン侯モリッツ宮廷の錬金術サークルの研究、J.Shackelford によるセヴェリヌス研究等、80年代から90年代にかけて多数の研究が行われてきている()。 
  
   さて、原著が1977年に発表されてから20余年が過ぎ、その旺盛な活動期がほぼ幕を閉じた現在、我々はポスト・ディーバス時代にいることに気づくべきである。ディーバスの優れてオリジナルな研究でさえ、その不備や誤審が厳しく正される時がきている。結局のところ、ディーバスはあまりラテン語や古いドイツ語が読めなかった。早くから大陸の出版物を母国語に訳す伝統があった英国の遺産を上手に活用した彼の一次文献読解の手法は、言語の苦手な歴史研究者の良いお手本になるであろう。しかし、彼が深く読み込めなかったマテリアルはあまりに多いし、彼が実際使ったものにしても、表層的な扱いで終ってしまっているのが大半である。ポスト・ディーバス時代の研究者にとっての課題は、まさにそのような点の克服にある。実際、既に J.Telle 一派によるドイツのパラケルスス主義者についての研究は、ディーバスが軽視した比較的無名であるが重要であった人物の発掘に多大な貢献を与えているし、C.Gilly による詳細な薔薇十字会研究や D.Kahn による浩瀚なフランスのパラケルスス主義者についての研究など、ディーバスが典拠不備から犯さざるを得なかった過ちを修正する優れた研究が続々と登場してきている。一方で、パラケルスス主義者とは一線を画する、同時代の、より伝統的な中世錬金術を重要視した人物達に関する L.Principe などによる研究が進められている()。 
  
   以上の点に基づいて日本の状況を振り返ってみた時、我々は、そこに20年の隔たりがあることを確認しなくてなならない。これまでに、ディーバスの著作世界の中で本邦に紹介されたものは僅少である。ルネサンス期西欧科学の歴史の簡便なイントロダクションとして企画された小品『ルネサンスの自然観』(サイエンス社, 1986) が、唯一まとまって読める出版物であった。また、ある大学の化学史の勉強会で『フランスのパラケルスス主義者たち』の紹介を1993年にしたとき、パラケルススの名を出しただけで、化学史通史を書こうと意気込んでいる参加者の中からニガ笑いが起こったことを私は記憶している。一体どのくらいの人間が、ディーバスの著作を真剣に読んできているのか?本書『ケミカル・フィロソフィー』について言えば、訳者の説明によると1989年の翻訳開始から10年が経過している。その10年越しの大業を成し遂げた大谷卓史・川崎勝両氏の執念と力量に、まず敬意を表したい。本書に見られるような、複数の言語・文化環境にある概念・用語を翻訳するのは並大抵の事ではない。が、そのような困難を乗り切って見事に翻訳された本書にでさえ、英語やドイツ語に比べ、特にラテン語とフランス語の人名・著書名に時おり違和感を覚えるのは、私だけではあるまい。また、長い英文を短く切って翻訳するという普段よく使われるテクニックの弊害が最もよく現れているのは、「ゴオリによるパラケルススの体系の要約がセヴェリヌスの『哲学的医学のイデア』に収められた」(123)という意の名誤訳であろう()。些細なことかもしれないが、非常に残念なのは、マーケッティングの戦略的計らいから著名が『近代錬金術の歴史』に矮小されてしまった点である。上述のように幅広いテーマを議論している「ケミカル・フィロソフィー」の歴史を取り扱う本書は、化学史家や科学史家だけに読まれるに留まるべき類の書物ではない。ルネサンスとその延長としての17世紀における西欧の文化・思想・宗教・芸術・文学に興味を抱く全ての人に「キミア」という知の伝統がなしたインパクトを知ってもらう糸口となるべきものである。一見して魅力的な「錬金術」というタームに還元することでエソテリスムに関心を抱く読者を掴んで1000部を売ることを第一目標にするべきではなかった。 
 

脚注

(1) 『化学史研究』1984年第2号(第27巻)p. 81 参照。

(2) The English Paracelsians. London, Oldbourne, 1965. この著作は、本邦でも当初『ケミカル・フィロソフィ』ともども翻訳が平凡社のクリテリオン業書に収められるはずであった。

(3) 現在では、Chemistry, Alchemy and the New Philosophy, 1550-1700. London, Variorum, 1987. として一冊の簡便な論集にまとめられている。  

(4) The French Paracelsians : The Chemical Challenge to Medical and Scientific Tradition in Early Modern France. Cambridge, Cambridge UP, 1991. 

(5) 「キミア」の広範な影響のうちで物質理論における機械論との相互作用については、H. Hirai, Le concept de semence dans les theories de la matiere a la Renaissance : de Marsile Ficin a Pierre Gassendi. Ph. D. diss., Univ. de Lille 3, 1999 参照。 

(6) 以下参照。W.R. Newman, Gehennical Fire : The Lives of George Starkey, an American Alchemist in the Scientific Revolution. Cambridge (MA), Harvard UP, 1994; P.H. Smith, The Business of Alchemy : Science and Culture in the Holy Roman Empire. Princeton, Princeton UP, 1994; R.G. Frank Jr., Harvey and the Oxford Physiologists : Scientific Ideas and Social Interaction. Berkeley, California UP, 1980; B.T. Moran, The Alchemical World of the German Court : Occult Philosophy and Chemical  Medicine in the Circle of Moritz of Hessen (1572-1632). Stuttgart, Steiner, 1991; J.R. Shackelford, Paracelsianism in Denmark and Norway in the 16th and 17th Centuries. Ph. D. diss., Univ. of Wisconsin (Madison), 1989. 

(7) 以下参照。J.Telle (ed. ), Parerga Paracelsica : Paracelsus in Vergangenheit und Gegenwart. Stuttgart, Steiner, 1991.  Idem (ed. ), Analecta Paracelsica : Studien zum Nachleben Theophrast von Hohenheims im deutschen Kulturgebiet derfruehen Neuzeit. Stuttgart, Steiner, 1994.  Idem (ed.), Documenta Paracelsica : Paracelsismus und Alchemie im deutschen Kulturgebiet der fruehen Neuziet. Stuttgart, Steiner, forthcoming; C. Gilly, Adam Haslmayr : Der erst Verkuender der Manifeste des Rosenkreuzer. Amsterdam, Pelikaan, 1994; D. Kahn, Paracelsisme et alchimie en France a la fin de la Renaissance (1567-1625). Ph. D. diss., Univ. de Paris IV, 1998; L.M. Principe, "Diversity in Alchemy : The Case of Gaston "Claveus" DuClos : A Scholastic Mercurialist Chrysopoeian." in A. G. Debus & M. T. Walton (eds.), Reading the Book of Nature : The Other Side of the Scientific Revolution. Kirksville (Missouri), 1998. pp. 181-200.

(8) 勿論こういった事実は無いし、原著もそんな事は言っていない

 
 

 

個人的なアウトプット一覧