「インテレクチュアル・ヒストリーがいどむ近代像への新たな挑戦」
『ミクロコスモス』の発刊を機に、喜ばしいことに各方面でインテレクチュアル・ヒストリーあるいは精神史とは何かという議論がまきおこっている。
歴史学では、国家の統治機構や経済活動の研究が主流であったが、近年では文化史的な側面も徐々にクローズアップされてきた。インテレクチュアル・ヒストリーはその一歩先にあるものだ。そこでは、個々の思想家だけではなく、文学・芸術作品、さらには政治的な事象までもが研究の対象とされるが、特徴的なのは各作品や出来事が成立する際の知的文脈の理解に大きな努力が払われることである。例えば、16世紀末の神聖ローマ皇帝ルドルフ2世のユダヤ人寛容政策が生まれたのは、帝国の重要な財源のひとつとしてユダヤ人の経済力が重視された結果だけでない。当時流布していたキリスト教カバラ思想がルドルフの統治理念の根幹にまで深く影響を与えていたことを踏まえてはじめて、カバラの民としてのユダヤ人に対する彼の態度が理解されるのである。
また、思想史といわれるジャンルは哲学の一分野とみなされてきた。しかし、多くの哲学研究家たちは特定のテクストの解釈にこだわるあまり、それぞれのテクストが成立する背景にある知のコスモスの把握に十分な関心をはらってこなかった。例えば、ライプニッツの思想を理解するためには、テクストを読みこむだけではなく、彼の作品世界の歴史的コンテクストを把握することが必須である。近年の研究では、有名なモナドの概念なども当時の化学や生物学といった知的文脈の考察を欠いては正確な理解にはいたらないことが明らかになっている。
つまり、精神史研究とは歴史学と哲学のあいだに存在し、歴史学者の時間軸に対する感性と、哲学者のテクストのなかに入りこむ浸透力のふたつを同時に必要とするジャンルなのだ。
初期近代(15-18世紀)のインテレクチュアル・ヒストリーは、多様な要素が複雑に絡み合っている領域であり、そこではおのずから分野横断的な視点が求められる。専門分野ごとに縦割されがちな従来の学問伝統にたいして、そのような方向性を持つ研究を発表する特別な場所の確立が長らく望まれてきた。
初期近代の精神史研究を専門にあつかうウェブ・サイト bibliotheca hermetica (http://www.geocities.jp/bhermes001/) につどう研究者たちの手によって発刊された学術誌『ミクロコスモス』は、そのような要請に真摯にこたえようとするものだ。これまでなら思想史、美術史、建築史、科学史、宗教史、文学史、教育史、政治史といった各分野の枠内で論じられていた初期近代文化における多様な主題が、ここでは追求、分析されるだろう。また、それらの主題はたがいに交錯しあい、密接に関連していることが理解されるであろう。若手研究者たちに発表の機会を提供するだけでなく、精神史研究のオーディエンスそのものを開拓し育てていくことも目的としている本誌には、研究ノートを主体としたオリジナル論考とともに、本邦ではなかなか紹介されにくい言語で発表された海外の優れた研究論文や重要原典テクストの翻訳、最新の研究動向や文献紹介などがおさめられることになるだろう。
レオナルド・ダ・ヴィンチに代表されるような一人物があらゆる領域に手をそめ、活躍した初期近代という時代は、分野横断的な精神史研究の独壇場である。精神史研究の豊かさと深さ、特にその多様さによって、その大いなる時空間を再現・表象する「小宇宙」(ミクロコスモス)となることが本誌の目標である。
歴史と哲学のあいだの学問伝統の壁は、そのまま書店の配架にも反映されている。『ミクロコスモス』は、この目に見えないカベを壊すことを目標にしている。現段階では、つねに思想の棚におかれる本誌が、数年後には歴史の棚にもみつけられるようになったとき、インテレクチュアル・ヒストリーは日本の土壌にも何らかのかたちで根づいたと判断できるのではないだろうか?