科研費共同研究(基盤B) 2013‐2016



 

 

西欧ルネサンスの世界性と日本におけるキリシタンの世紀

Renaissance Culture and Japan’s Christian Century (1550-1650)



 

 

キリシタンの世紀とはなにか?

 

 

1. はじめに

 

 1549815日、最初のイエズス会宣教師フランシスコ・ザビエルまたはハヴィエ(Francisco Xavier, 1506-1552)が鹿児島に到着した。それ以降、つぎつぎと渡来したヨーロッパの宣教師たちが精力的な布教活動をおこったキリシタン時代(1549-1650年頃)に、日本は西欧文明との直接的な交流を体験することになる。

 

イエズス会の高等教育機関だった日本コレジオは、1581年(天正9年)に豊後国の府内に設立され、1586年以後は戦乱を逃れつつ、島原、天草、長崎と各地を転々とした。1582年には、後述するヴァリニャーノとともに天正遣欧少年使節団が長崎を出航した。使節団は1585年にローマに到着、ローマ法王に謁見。さらに1590721日には長崎に帰還し、金属活字と活版印刷機を持ち帰っている。なお1589年には秀吉の禁教令がだされ次第に弾圧が増していき、1597年には二十六聖人の殉教が起きている。

 

遣欧使節団の1人、伊東マンショ(1585年)

 

 

日本コレジオでは、ローマ・カトリック教会の神学教義だけでなく、アリストテレスに由来する自然哲学や霊魂論、プトレマイオスに多くをおう宇宙論などが神父予備生たちに講義されていた。コレジオを拠点とするイエズス会士および日本人修道士(イルマン)たちの知的活動の中心は、布教と教育のための著作の執筆や翻訳とその出版・印刷であり、わずか20~30 年間の活動の結果いわゆる「キリシタン版」と呼ばれるテクストが生み出され、現在でも30数点存在することが知られている。国内に存在するそのほとんどが重要文化財に指定されている。

 

この翻訳・著作、そして出版活動における頂点をしめすと考えられる記念碑的な作品『ひですの経』は、長崎のコレジオに附置するキリシタン商人後藤登明宗印(c. 1545-1627)の印刷所で刊行された。イエズス会士による1613119日付の書簡で印刷が終わったばかりであると報告されている。1614年には徳川家康によるキリシタン禁令(キリシタンは30万人になっていたといわれる)が定まり、翌161411月には在日宣教師および高山右近(1552-1615)らがマニラとマカオへ追放されるとともに、活版印刷機もマカオへ撤退を余儀なくされた。

 

キリシタン関係の一次史料の多くはラテン語、ポルトガル語、スペイン語、そして近世初期の日本語で書かれている。そこには、西欧ルネサンス・初期近代のインテレクチュアル・ヒストリーに特有の主題やテーマを数多く見出すことができる。この観点からこれらのテクストを分析しようとする研究はまだ緒についたばかりであり、新たな知見が数多くえられることは間違いないであろう。以下では、こうしたキリシタンの世紀に活躍した幾人かの主要人物とその著作について概観する。

 

 

 

 

 

2. アレッサンドロ・ヴァリニャーノ(Alessandro Valignano, 1539-1606

 

 

1539年、イタリア・ナポリ王国の町キエティに生まれる。パドヴァ大学で法学を修めたあと、1566年にイエズス会に入会。コレジオ・ロマーノで哲学・神学を専攻し、1570年に司祭に叙階される。1571年には修練院で教えたが、教え子のなかには中国伝道の先駆者となるマテオ・リッチ(1552-1610)などがいた。

 

 

1573年、イエズス会総長の名代として広大な東洋地域をめぐる東インド巡察師 visitador に抜擢される。日本には1579-1582年、1590-1592年、1598-1603年の計3回ほど巡察し、教会の組織改革や財源確保、年報制度の確立などの根本方針を決定した。また、天正遣欧使節の派遣など多方面にわたるとり組みを実施した。日本各地を訪れたさいには、大友宗麟、織田信長、豊臣秀吉らとも謁見した。

 

布教方針として、ヨーロッパの慣習にとらわれず、日本文化に自分たちを同化させる方法をかかげた。これは「適応主義」の名で知られている。他方、キリスト教信仰の基礎となる西洋の学術知識の導入・教育にも精力的にとり組んだ。とりわけ、日本人司祭の育成を急務と考え、セミナリオ・コレジオなどの施設を設立・整備したことは、日本人の西洋思想との出会いにおける制度的な基盤となった。また、活版印刷機を日本に導入し、それによって「キリシタン版」という名称で知られる一連の出版物が生み出された。

 

巡察師として執筆した報告・著作は多数におよぶが、日本のキリシタン伝道の基調をなしたともいわれる著作『日本のカテキズモ』 Catechismus christianae fidei (リスボン、1586年)は、哲学・科学など西洋の学術知識の東アジアへの移入を考えるうえで、とりわけ重要な著作である。

 

 

 

 

 

3. ペドロ・ゴメス(Pedro Gomez, 1533/35-1600

 

1533/35年、スペイン・マラーガ県アンテケラ市に生まれる。1553年、イエズス会に入会。1555年より、ポルトガル・コインブラのイエズス会コレジオで教養科目を教えた。1559年夏、司祭に叙階される。同年秋には、すでに教師として「きわめて稀にみる能力の所有者」で「見事な明晰さと創意工夫を有し、教養科目と同教授法にきわめて通暁していると思われる」と高い評価をえていた。1564年からは神学も教えた。

 

1579年に東洋への派遣の希望が承認され、リスボンを出発しゴアを経て、1581年にマカオに到達した。そして1583年(天正11年)の夏には日本に到着し、巡察師ヴァリニャーノの命により、豊後府内コレジオにおける哲学と神学教育にたずさわる。ゴメスの監督のもと、同年1021日に日本で最初の正式な哲学課程が開始され、それは二年で終了した。15854月からは神学の講義をはじめている。その後1590年(天正18年)には日本準管区長となり、名実ともに日本イエズス会を指導する立場となった。

 

 

ゴメスの業績として特筆すべきは、1593年(文禄2年)にコレジオの教科書として、日本独自の『講義要綱』を完成させたことである。これは以下の三部で構成されている:

 

1) 西欧の宇宙論(天文学・気象論・物質論)についての『天球論』 De sphaera

2) アリストテレス哲学にかんする『霊魂論』 De anima

3) 神学にかんする『神学要綱』 Compendium catholicae veritatis

 

 

『講義要綱』は、西洋の科学や哲学などの学術知識を、はじめてまとまったかたちで日本に紹介した書物であり、日欧の文化交流史上に特筆すべき位置を占めている。

 

 

 

 

 

3. 『ひですの経』

 

 

 『ひですの経』は、1611年(慶長16年)に長崎のイエズス会学院で出版された。しかし、内容不明のまま、20世紀初頭の書誌情報を最後に行方不明となっていた。その世界に唯一の孤本が、2009年に米ハーバード大学ホートン図書館で再発見された。

 

 

 『ひですの経』は、イベリア半島で活躍した説教師・修徳思想著作家ルイス・デ・グラナダ(Luis de Granada, 15041588)の著作『使徒信条入門』の第一巻(サラマンカ、1583年)の邦訳である。序章にかかげられている聖書の一句「眼に遮る物を以て肉眼にかゝかり給はぬデウスと其御善徳を見知り奉るべし」からもうかがえるように、自然界の秩序と美の観察から超自然なる万物の創造者デウス(神)の存在が揺るぎなく偉大であることを、百科全書的な知識をつうじて読者に理解させようとするものである。また「スペインのキケロ」と称されるグラナダによる雄弁術の技法につらぬかれた原典を、室町時代語に邦訳しようとした苦心の産物でもある。

 

 グラナダとキリシタン版とのかかわりは深く、『ひですの経』の他にも『ぎやどぺかどる』『ヒイデスの導師』『サントスのご作業』の一部、また写本のみで現存している「東家旧所蔵吉利支丹抄物(通称)」「バレト写本(通称)」などのキリシタン文献にも彼の著作の痕跡がみられる。さらに『ひですの経』の校閲者として名をつらねているのが、かの天正少年使節の一人、原マルチノである。彼はリスボンでグラナダに謁見している。イエズス会の東洋事業を援助したテオトニオ・デ・ブラガンサ枢機卿との親交から、グラナダ自身も東洋での布教に多大な関心を抱いていたことが知られる。

 

 語彙史、国語史、翻訳論、東西印刷出版文化史などさまざまな分野から『ひですの経』の解明が今後期待される。なんといっても気になるのは、東西をまたぐ思想史研究の立場からみた同書の特徴であろう。マルシリオ・フィチーノ(Marsilio Ficino, 1433-1499)をはじめとする当時イタリアで盛んであったルネサンス・プラトン主義の著作家たちに由来する「霊魂」(アニマ)論への言及など、他のキリシタン版にはない特徴も明らかになった。従来のキリシタン研究は、日本におけるヨーロッパ思想の「受容」という一方向に偏りがちであった。しかし、『ひですの経』の研究は、日本でのキリスト教布教の主導者であったイエズス会が直面していたヨーロッパの複雑な思想的な状況を逆照射することを可能とする「動的な」テクストとしてキリシタン版を再考することの必要性も問いかけている。

 

 

 

 

キリシタンの世紀