説明: C:\Users\hhirai\Dropbox\bh\slim_line_02_m.gif

初期近代ポーランド研究のプラットフォーム

説明: C:\Users\hhirai\Dropbox\bh\slim_line_02_m.gif

 

20176月末にベルリンでおこなわれた国際会議での発表にひきつづき、

初期近代のポーランドにおけるプロテスタントの知的活動について調べています。

 

バルト海沿岸のプロシア・ポメレニア地方とチェコに近いシレジア地方に注目しています。

どちらもドイツ系の住民が多く住んでいた場所です。

 

 

基本文献

 

プロシア・ポメレニア地方

 

 

 

シレジア地方

 

 

 

メイキング風景

 

2017. 8. 23

  先日ここで触れた、ポーランド史の『神の遊び場』で使われている論文を読みました。「1718世紀におけるポーランドの新教徒と英国・オランダとのつながりNicholas Hans, “Polish Protestants and Their Connections with England and Holland in the Seventeenth and Eighteenth Centuries,” Slavonic and East European Review 37 (1958), 196-220 という、すこし古めのアイテムです。でも、これが非常に役立ちました。コメニウスを中心とするレシュノのアカデミーのことと、ソツィーニ派とそのオランダとの関係について手堅くまとめられています。

 

 

2017. 8. 22

  ヤンに教えてもらった文献のうち、ひとつはアンによるものでした。ずいぶん昔に目をとおしましたが、忘れているので読み返しました。「モーセの自然学と末期ルネサンスにおける敬虔な自然哲学の探究Ann Blair, “Mosaic Physics and the Search for Pious Natural Philosophy in the Late Renaissance,” Isis 91 (2000), 32-58 という論文は、タイトルにそう書いてないので分かり難いのですが、じつはコメニウスが主人公です。といっても、ありがちなコメニウスの英国への影響を軸にすえるのではなく、彼が影響をうけたり、主要作のなかで言及したりしている人物たちの著作を追いながら、キリスト者のための自然学についての彼の態度を炙りだすものになっています。

 

  この力作を読むと、つぎには同時期に発表された、似ている題材を扱っている『遅れた天国:アルシュテートとカルヴァン派の百年王国論の誕生Howard Hotson, Paradise Postponed: Johann Heinrich Alsted and the Birth of Calvinist Millenarianism (Kluwer, 2000) を読み返さないといけないなと思わされます。アルシュテートはコメニウスの先生に当たります。

 

 

2017. 8. 21

  基礎を知ろうと思って、『神の遊び場:ポーランドの歴史Norman Davies, God’s Playground: A History of Poland (Oxford UP, 1979/2005) の上巻を入手しました。初期近代のポーランドの知的マップについても記述があります。

 

 

2017. 8. 19

  コメニウスの人間論で博論をかいたチェコの友人ヤンに、コメニウスの周りの自然哲学について文献はなにがおススメか聞いてみました。ほどなくして返事をくれ、4つほど重要なものを教えてくれました。チェコでだされた古いアイテムもありますが、なんとか入手してみようと思います。

 

 

2017. 8. 18

  つづいて、ヨンストンについての新し目の論文「新イスラエルの動物たち:ヨンストンの自然と17世紀における千年王国主義的な教育論の興隆Gordon L. Miller, “Beasts of the New Jerusalem: John Jonston’s Natural History and the Launching of Millenarian Pedagogy in the Seventeenth Century,” History of Science (2008), 203-243 を読みました。フーコーからはじまるヨンストンの再考を足がかりに、初期近代の自然誌についてのアシュワースやフィンドレンによる近年の研究の系譜につらなる立場から、ヨンストンの位置づけをみています。なかでも、目玉としてプロテスタントの千年王国主義との関係を強調しています。

 

目のつけどころはとても良いと思うのですが、千年王国主義を描くときにコメニウスについて以外は、なぜか彼の母体であるチェコ兄弟教団シレジア地方での動きはいっさい語られず、ベイコンをはじめとする英国の例で議論を固めている点が、ちょっともどかしい印象をえました。直近に出されたドイツ語の論文も勘案していないのは、どうなのでしょうか?

 

 

2017. 8. 17

  教育学や教育思想の方面で日本でもよく知られているコメニウスは、著作の邦訳もいくつか出ていますが、初期近代の知的地図における位置づけについては、プロテスタント神学百科全書主義との関係でみる必要があるでしょう。相馬伸一 『ヨハネス・コメニウス:汎知学の光』 (講談社メチエ、2017年)という新刊は、そうした方面にチャレンジしたとても良い入門篇なのではないでしょうか?

 

  オキ君にとってもらった論文「コメニウス、兄弟教団、書簡ネットワークVladimir Urbanek, “Comenius, the Unity of Brethren, and Correspondence Networks,” Journal of Moravian History 14 (2014), 30-50 を読みました。これまであまり研究されてこなかったコメニウスの書簡集から、知のネットワークを炙りだすという今風の研究です。ハートリーブのサークルに大きな比重があるのも納得しますが、コメニウスが兄弟教団への寄付獲得に奮闘していた様子が良くわかります。オランダの裕福な商人たちからの寄付は、兄弟教団の若者がオランダの大学で学ぶための奨学金にされた点などは、非常に興味ぶかいものです。

 

  これと関連している論文「排斥された知識人と再構築されたネットワーク:ボヘミア王国から逃れた新教徒の亡命者たち Vladimir Urbanek, “Displaced Intellectuals and Rebuilt Networks: The Protestant Exiles from the Lands of the Bohemian Crown,” in Religious Diaspora in Early Modern Europe, ed. Timothy Fehler et al. (London: Pickering and Chatto, 2014), 167-179, 230-234 も読んでみたいところです。

 

 

2017. 8. 16

  昨日の調査で分かったことをノートにまとめています。いまでは、誰の眼にもとまらないような古い本ですが、僕にとっては新鮮な知見にあふれています。

 

  コメニウスの方ですが、やはりヨンストンは彼の協力者だったことがわかりました。とすると、その友人だったヘンリクス・マルティニがコメニウスと面識があり、チェコ兄弟教団に共感していたことも、ありえる話だと思います。ということで、まずはコメニウスの書簡集を調べています。> ヨンストンの書簡集をつくる計画もあったようですが、計画はとん挫してしまったのかも知れません。

 

  この辺りを探るためには、ラテン語ドイツ語に、ポーランド語チェコ語が必要になります。だから、なかなか研究が進まないのでしょう。僕の知っている人でも、これら四言語をこなす人はおそらくいないでしょう。

 

 

2017. 8. 15

  古い本ですが、エリザベス朝の英国からスウェーデンに1591年に招待された演劇団についての研究書をうけとりました。これが当たりで、僕の調べているホモダエウスについて非常にまとまった記述をみつけました。この演劇団の招待を手配した人物ではないかと、この本の著者が考えているからです。僕にとって演劇団そのものはさほど重要ではないのですが、著者はホモダエウス一家についてスウェーデン各地やダンツィヒの公文書館で調査してくれています。それで分かったことですが、やはり二人いたホモダエウスは兄弟でした。バラバラだった点と点がつながってきました。

 

 

2017. 8. 14

  プロテスタントのチェコ兄弟教団は、チェコの東側にあるモラヴィア地方から追放されてポーランドのシレジア地方にあるレシュノの町に移動します。この亡命者たちのなかで、コメニウスが書記として頭角を現してくるわけですね。

 

 

2017. 8. 12

  注文したマテリアルが来週には届くようですが、それまでダンツィヒのことは置いておきましょう。今日は気になるシレジアのことを探りはじめました。

 

いま調べているヤコブ・マルティニは、ヘンリクス1615-1675)という名の弟がいます。リトアニアなどで哲学を教えた後に、1656年にハイデルベルグ大学で医学の博士号をとります。ポーランドに戻り、シレジア地方のレシュノ Lezsno の町で小著を1658年に出版します。当時この町がカトリックのハプスブルグ家に支配された地域から逃れてきた各種の新教徒たちを受けいれて栄えていたことを知りました。なかでも出版業が盛んだったようです。ヘンリクスは、すでに1645年にヨンストンに自著の紹介文を書いてもらっています。レシュノでは、コメニウス1628-1657年に滞在)が主催していた知的サークルに、ヨンストンやヘンリクスも出入りしていたのかもしれません。さらには、あのハートリーブとも関係があるようで、レシュノはとても気になる場所となりました。

 

 

2017. 8. 11

  ついに超レアなアイテムの画像ファイル群がポーランドから送られてきました。それらを PDF に変換してつなげ、文字検索できるようにしました。それから文献表をみながら、オンラインで入手できる文献をどんどん落として、調べものをすすめています。初期近代のダンツィヒの歴史についてのラテン語ドイツ語の文献は、ほぼ網羅できたと思います。面白いことに、昔から幾つもの書物がこの町の医学史について書かれています。

 

 

2017. 8. 10

  いまはポーランド領ですが、歴史的にドイツ移民の多かったシレジア地方についても調べないといけないのかなと、ふとしたことから考えています。

 

 

2017. 8. 5

  16世紀の末から17世紀に、はるか彼方のポーランド沿岸部のポメレニア地方から、わざわざオランダの大学に学生たちが来ていたことは、僕にはずっと不思議でした。だんだん分かってきたのですが、当時はバルト海一帯にオランダの資本が入って、人的な結びつきができていたようです。なるほど、オランダはカルヴァン主義の盟主となりつつあったことも勘案すると、スウェーデンやその影響をうけていた地域からプロテスタントの学生たちがやって来たのは、ある意味で納得のいくことですね。

 

  ちょっと古いですが、インテレクチュアル・ヒストリーの観点からは、いまでも役立つ本として『17世紀の技芸と科学の分野におけるスウェーデンとオランダの関係E. Wrangle, De Betrekkingen tusschen Zweden en de Neerlanden op het Gebied van Letteren en Wetenschap voornaamlijk Gedurende de Zeventiende Eeuw (Leiden, 1901) をみつけました。ただし、使った史料や文献にはほとんど言及してないので残念です。

 

 

2017. 8. 4

  以前に調べたときに、どうしても見つけられず、なかば諦めていた 『ハンブルク医師協会とハンブルクの医師サークルFriedrich Nicolaus Schrader, Das Hamburgische Collegium medicum und der ärztliche Verein in Hamburg (Hamburg, 1840) をハンブルグの市立図書館のデジタル・アーカイヴのなかにみつけ、ダウンロードできました。これは、ラッキーです!

 

  初期近代のダンツィヒにあった各種の学校について、20世紀初頭に書かれた歴史書を友人のラファルに教えてもらっていたのですが、これもダンツィヒの図書館のデジタル・アーカイヴにありました。その本から、さらにそれ以前の基本書を芋ずる式にみつけてチェックしています。なかでも Paul Simson という歴史家が一連の研究書をだしていて、だいたいのものがデジタル化されていました。

 

 

2017. 8. 3

  ポーランドの図書館のデジタル・アーカイヴに、チェックしたかった雑誌 Danziger Familiengeschichtliche Beiträge が数冊ありました。この地方の歴史を扱った19世紀末くらいまでの書物は、だいたいドイツ語で書かれています。ただダウンロードした画像ファイル形式が Djvu という古いもので、とり扱いが面倒です。一挙に PDF に変換してつなげる方法はないものでしょうか?

 

 

2017. 7. 30

  次号のメルマガを推敲して、ドロップしました。僕としては、これまで扱ったことにない領域・手法を開拓することを試みた新作「ゼンネルトとオカルト質、医学と神学論争のはざまで」です。配信は、82となります!

 

 

2017. 7. 29

  結局のところ、今回はベルリン会議で発表した原稿を翻訳することにしました。午後をとおして作業をして、まずは下訳を完成させました。題して、「ゼンネルトのオカルト性質、医学と神学論争のはざまで」です。あと一日じっくりと推敲します。

 

 

2017. 7. 11

  昨日の件から、さらに歩を進めています。これまで話はオランダからポーランドにまでわたっていたのですが、今度はポーランドからスウェーデン、さらにイタリアへと展開してきました。まさにこれは、歴史研究の醍醐味です。僕の調べている人物の一家は謎が多いのですが、とくに父親ともう一人の人物はじつは同じ名字であり、イタリアの同じ町の出身だとつきとめました。午後の調査で、父親のバーゼル大学での学位論文は、もう一人に献呈されていました。おそらくは兄弟か従兄弟ではないかと思われます。ここでは仮に父親伯父と呼ぶことにしましょう。

 

  なぜこの二人のイタリア医師たちが1590年代のポーランドにいたかというと、叔父の方がスウェーデン王の侍医になり、おそらくは父親は、それを頼って北の地に乗りこんできたのしょう。さらに調べを進めているうちに、とんでもないことをつきとめました。なんと叔父はスェーデン王の侍医なだけではなく、その弟の伯爵からの密命をおびたエージェントだったようです!う〜む、これで基本的なデータがほとんど残っていない理由も見えてきました。面白すぎて、なかなか止められません。

 

 

2017. 7. 10

  ポーランドの友人ラファルに頼んでいた文献のチェックがドンピシャリで、僕の欲しかった知見をえることができました。それをもとに、いろいろな付随する調査をつづけています。同時に、オキ君に協力してもらってフラネケル大学の学生登録簿もチェックできました。ここはひとつ拾いものがあり、あとは存在していなかったことを確認できました。

 

 

2017. 7. 9

  昨日の夕方から今日の午前にかけて、17世紀初頭のハンブルグ出身の医師 Conrad Walther について調べていました。科学・医学史についての現代のレフェランスには出てないようなマイナーな人物なので、昔のソースに戻らないといけません。調査の過程で知ったハンブルグの知的な歴史のための基本的な書物を挙げておきます。最初のアイテムは現在のデンマークとドイツにまたがるホルシュタイン地方の著作家についての辞典です。四番目のものは、ハンブルグに関係なくドイツの著作家一般を扱っています。

 

Johann Moller, Cimbria literata (Copenhagen, 1694), 3 vols.

Johann Albert Fabricius, Memoriae Hamburgenses (Hamburg, 1710-1730), 8 vols.

Arnold Christian Beuthner, Hamburgisches Staats- und Gelehrtenlexikon (Hamburg, 1739).

Christian Gottlieb Jöcher, Allgemeines Gelehrten-Lexicon (Leipzig, 1750-1751), 4 vols.

Johann Otto Thiessen, Versuch einer Gelehrtengeschichte von Hamburg (Hamburg, 1783), 2 vols.

Friedrich Nicolaus Schrader, Das hamburgische Collegium medicum und der ärztliche Verein in Hamburg (Hamburg, 1840).

Hans Schröder, Lexikon der hamburgischen Schriftsteller bis zu Gegenwart (Hamburg, 1849-1883), 8 vols.

 

最初のものの Conrad Walther についての記述は数行ですが、最後のものになると、かなりまとまった記述となります。18世紀における、この種の伝記辞典の伝統の豊かさを感じます。これらの流れのなかに、19世紀後半から20世紀前半につくられた Allgemeine Deutsche Biographie (ADB) や、それを受けついだ  Neue Deutsche Biographie (NDB) があるのでしょう。

 

基本的な作業は、ADB NDB から出発してさかのぼっていくわけですが、そこに記事がない人物については、1819世紀に書かれた町や地方の名士・著作家をあつかった歴史書を探しだして当たるしかありません。この時代のものは、たいていグーグル・ブックスのおかげでデジタル化されているので助かります。

 

 

2017. 7. 8

  フライターグの生徒たちの出自をさぐっています。いまのところ、欧州各地の大学の学生登録簿(マトリクル)をあたっています。

 

 

2017. 7. 7

  17世紀末の人物が書いた ダンツィヒの医師たちの伝記Vitae medicorum Gedanensium が手稿のままで眠っていたようですが、2年前にポーランドで翻刻出版されました。この超レアな書物、なんとかつきとめた出版社のサイトによると入手不可能のようで困っています。どういうことなのでしょう?

 

ポーランドハンガリーにいる友人たちの協力で様子が分かってきました。計画はヨーロッパ共同体が出資者で、出版された本をすべて買い上げてしまったようです。その後どのように配分したかは分かりません。欧州各国の重要な図書館には入ってない模様です。こういう商業が絡んでいない基礎的な史料こそ、ポーランドのアカデミーなどがオンラインで公開して欲しいものです。

 

  ダンツィヒの町を中心とする一帯はもともとプロイセン領でドイツ語圏だったのですが、いまはポーランドになっていますので史料の調査などが難しくなります。当時の様子をあつかう歴史文献もそれなりにあるのですが、入手が難しいものも多いです。

 

 

2017. 7. 6

  フライターグの生徒の一人であるダンツィヒ出身のヤコブ・マルティニについて、ラファルに少々調べてもらいました。なんとなく見えてきました。

 

 

もどる