BHの用語集

 



 

アニマとアニムス

2004. 8. 2

アニマ anima アニムス animus の違いについて気になっています。現代心理学でも用いられたことから、ウジャウジャと要らない情報がネット上には多くて、なかなか役に立つことは得られないのですが、一般的に霊魂と言えばアニマで、人間霊魂の中の知性 intellect 精神 mind に近い部分を指すのがアニムスというのが良くある説明です。入魂のもう一人のガレノス論文を書いているときに、フェルネルの用法で疑問を感じたのが関心を持ったきっかけです。彼は、人体から霊魂が抜け出した後、空中に彷徨っている状態についてもアニムスを用いているのが印象的でした。また、フィチーノの場合はどうかも見ています。専門家の中には、彼のアニマとアニムスの用法に違いはないという人もいるのですが、何か違いがあるのではないかと思っています。特にアニムスは、仏訳では esprit、英訳では thinking soul と訳されています。ただ、mens spiritus まで仏訳では esprit とされています (英訳では それぞれ mind spirit が採用されています) ちなみに、この現象はキケロの仏訳の場合も同様です。この問題、もともとはギリシア語のヌースをラテン語に置き換えるために採用された語が、intellectus 以外にも mens animus であったりしたところから来るのですが、特に後者はルクレティウスの用法が特徴的なものらしく、A.-M. Lathière, “Lucrèce traducteur d'Epicure : anima et animus dans les livres 3 et 4 du De rerum natura,” Phoenix (Toronto), 26 (1972), pp. 123-133 という論文があります。なお、春にトマスを読んだ時には、アニムスは殆ど使われていないと感じました。どなたか、アニムスについての研究を知っている方は、ご教示下さい。どんなものでも構いません。

 

 

2004. 8. 3

  昨日のアニムスの話の続きですが、思想史研究のバイブル『哲学歴史辞典 Historisches Wöterbuch der Philosophie にもアニムスのエントリーがないことから分かる通り、どうしても一般的な霊魂論に引っ張られがちで、なかなか良いものに出会いません。取り敢えずチェックしたいと思いつつ、見れていない論文があります。『ケンブリッジ版ルネサンス哲学史』所収の「知的霊魂 E. Kessler, “The Intellective Soul”, pp. 485-535 です。あとは『17-18世紀哲学辞典 Lessico filosofico dei secoli XVII e XVIII のエントリーも確認したいのですが…。> 取り敢えず、図書館に注文票を出す足で歴史学分館に行ってみました。数年前に新しいものになってからは、初めて入ります。Kessler 論文をコピーしてきました。予想に反して、アニムスに関する特別な議論はありません (一つ前の「有機的霊魂 K. Park, “The Organic Soul“ と似たつくりで、ある意味で納得)でしたが、アリストテレスの霊魂論の一番上を占める理性的霊魂 anima rationalis とその不滅性を巡る15-16世紀の議論の変遷が展望できる良い一本でした。

 

上記 HWP は、ガイスト Geist のエントリーで見るべきかも知れませんね。と思って、昔コピーしたものを見ると、対応するギリシア語はプネウマだけで、ヌースは省かれています。ということは、もう一つ別のエントリーがあるということでしょうか?はて。> お!Verstand Vernunft を見よと振ってあります。明日見に行ってきます。

 

  BHメイトの桑木野君がアニムスに関して一つデータを送ってくれましたが、本人も決定打に達していない&トマスに関する議論を見つけられるかも知れないといっています。お気持ちに感謝。> 手元にある『哲学百科 Enciclopedia filosofica animo のエントリーのコピーを見直すと、ルクレティウスの説明のあとに、アウグスティヌスの用法が出ていました。それによると、彼は人間霊魂 anima humana をアニムスと呼んだそうです。

 

2004. 8. 4

  HWP 2001年に出された最新巻 U-V が購入されていなく、Verstand Vernunft の項目は見られませんでした。でも、ルクレティウスの用法に関する論文は入手できました。ルクレティウス研究の代表格 Bailey の説明を退け、ルクレティウス以前にアニムスを使ったのはキケロだけで、プシュケーを指したとしています (伊語訳が animo を採用していないのも間違いではないようです)。キケロの場合は、ヌースが mens で、プシュケーが animus ということになります (アニマは使われないようです!)。一方のルクレティウスの場合は、アニムスが logikon、アニマが alogikon に対応し、前者に知性的な働きだけではなく、感覚的な働きも与えられている点が特徴ということです。で、生命的な働きだけあるものがアニマです。

 

2004. 8. 9

  週末を利用してセネカの『自然問題集Quaestiones naturales における spiritusanimusanima の用法を調べてみました。ストア主義者の彼は、スピリトゥスを限りなく風に近い気息の意味で用いますが、アニマにもそれに非常に近い働きを持たせている点に少し驚きました。一方、アニムスは精神の意味で使われています。この点はキケロに近いですね。これで、自然哲学に関する著作を書いた古代ラテン世界の3人について、だいたい把握しました。あとカルキディウスマクロビウスの場合を調べれば良いかなと思っています。ここまでの感触では、古代ラテン世界では霊魂に当たるものは主にアニムスが使われていて、アニマは補助的な役割しか与えられていません。これが中世に入ると、アニマが霊魂論でのメインの用語となる点が特徴的だなと思っています。アニムスからアニマへのスイッチ現象は、やはりキリスト教の伝統、特にアウグスティヌスの影響が大きいのだろうと想像しています。ま、この問題は、実はバークベック会議の準備とは別口ですので、後回しにするべきなのですが。

 

2004. 8. 12

  カルキディウスの場合、アニマは psyche で、アニムスは dianoeomai という思考するという動詞からくる用語のようです。つまり、思考する霊魂 thinking soul ということでしょう。アリストテレス流の理性的霊魂 anima rationalis に当たるものです。

 

2004. 8. 14

  名須川さんからアニムス関係でメールを頂きました。ありがとうございます。折角ですから引用させてもらいます:

 

「『アエネーイス』の講読に参加していた際、古典ラテン語における概念が、近代 (とはいっても、デカルトの周辺ですが) のそれと余りに違うので、纏めてお尋ねしたことがありました。「一般的な意味で」という質問に対し、anima は「息」、animus は「感情(意欲、心)」、mens は「知性」、spiritus は「風」であるとのことでした。(中略)実は、デカルトも、精神主体を彼の形而上学的体系において存在論的に表す場合には、専ら animus のみを用い(これは初期の『音楽提要』にも見られます)、認識論的に精神の身体からの分離を示す際には、その認識主体(即ち「知性」)を mens と称しています。即ち、極めて「古典ラテン語」的用法を踏襲していると言えます。勿論、anima を「霊魂」の意味で用いていますが、その場合には、「スコラ学者らが用い、自らも学院時代に教え込まされた旧態依然たる存在論においてはその様に用いているところの」という含みがあります。そのため、『第2省察』では、「私とは何か」ということを巡って、「かつて(懐疑する以前)は anima という言葉によってそれを呼んでいて、更に、それが何であるかと気に留めたとしても、風や火やエーテルと同種の微細なものであると想像していた」とするだけであり、結局、anima は懐疑によって払拭されてしまう概念の典型として取り扱われるに過ぎないわけです。その一方、明晰判明性の度合いを与えるのは「精神のみによる洞観」 solius mentis inspectio (これはアウグスティヌスの用語法でもあるそうです)であると明言していることから、認識主体が mens であると考えていることがわかるわけです。」

 

 

 

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